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馬籠佐藤氏
源氏車
(藤原氏秀郷流)


 佐藤忠信の子義忠は「大鳥城の佐藤一族を代表して」文治六年(1190)正月の大河次郎の叛乱に軍功をたて、源頼朝から五千貫余の采地を賜り、頼朝の前をはばかって義忠を信隆と改め、子孫繁衍したとされる。
 『岩手県史』の記すところによれば、信隆より五代目の信辰は、鎌倉将軍久明親王に仕えて信夫郡など千町歩を領し、飯坂郡大鳥城に根拠を構えた。その子信継は元弘の乱に北条高時に属したが、のち奥州に帰り、葛西氏の麾下となって本吉郡馬籠の城主になったという。千町歩の所領というのは、もとよりそのまま信じることはできないが、佐藤氏の勢力のほどはうかがえる。
 その後、天正十八年(1590)、葛西氏が小田原参陣に出向かなかったことから、秀吉による奥州仕置きによって所領を没収されるまでの二百五十六年間、佐藤氏は葛西氏に忠節を尽くして仕えた。
 主家葛西氏が没落してのちの馬籠佐藤一族は、馬籠忍館を去り漂伯して民間に隠れ、磐井郡高倉荘永井に潜居し、子孫は連綿と続いて現代に至っている。

参考資料:佐藤一族/岩手県史 など】


■参考略系図
   


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