坂崎氏は、大坂の陣における千姫救出に功のあった出羽守直盛一代限りであった。直盛の旧姓は宇喜田氏である。宇喜田能家の孫直家は美濃の斎藤道三と並び称される策謀家として知られ、一代にして山陽道屈指の戦国大名にのし上がった人物である。直盛はその直家の弟忠家の子である。つまり、豊臣政権下で五大老の一人となった宇喜田秀家とは従兄弟ということになる。 直盛は直家が天正九年(1581)に没したあと、秀家の後見役になったが、内紛を契機に宇喜田氏を離れ、三河に移って家康に従った。関ヶ原の合戦では、直盛は東軍に属し、秀家は西軍の将となったことから、従兄弟が敵味方に別れることになった。 戦後、津和野を賜り、慶長六年(1601)津和野へ入城した。直盛が宇喜田姓から坂崎姓に改めたのは、津和野入城前後のことであったようだ。そして、直盛の津和野在番は以後、十六年間であったが、この間、津和野城の大修築、城下町の整備などを進め、近世津和野城下町の基礎を築いた。 元和元年(1615)、大坂夏の陣で、直盛は豊臣秀頼の室で家康の孫娘にあたる千姫を落城の猛火のなかから救出したので、家康は姫を直盛の妻とすることを約束したという。ところが、千姫は翌年、本多忠刻に再嫁することに決定したため、怒った直盛は、輿入れの行列を襲って姫を奪おうといたが、かえって幕府軍に囲まれて自刃して果てた。というのが流布されている話であるが、もとより講談的に過ぎる。 実のところとしては、直盛が千姫と京都の公家との縁談をまとめたのに対して、幕府が本多忠刻との話を進めたので、怒って姫の行列を襲おうとしたものであるようだ。とはいえ、幕府に対する反逆を企てたことには間違いない。 この事件に際して、直盛は家臣らの手によって詰め腹を斬らされたともいい、また、幕府は直盛のもとに柳生宗矩を遣わして、その説得にあたらせ、宗矩の武士らしい説得に感じた直盛は自刃して果てたともいう。このとき、宗矩は直盛から「二枚笠」の紋を贈られ、以後、柳生家の紋として用いられるようになったという話も伝わっている。 いずれにしても、千姫問題で坂崎氏が断絶したことは確かなことであるようだ。 ■参考略系図 |