清和源氏足利義康の四世の孫実国が三河国額田郡仁木に住んで仁木氏を称し、のち室町時代にその一族の利長が、伊勢国一志郡榊原村に住み。榊原氏を称したのがはじまりという。利長の孫清長が三河に移り住んで松平氏に仕えたのがはじめとされる。 というのが通説であるが、榊原氏の家紋「源氏車」は佐藤氏のいわゆる代表紋である。佐藤氏は藤原秀郷の後裔で、秀郷が下野国佐野庄で勢力を振るったことから、佐野の藤原で佐藤氏と称した。佐藤氏の多くは奥州に広がっていった。とkろがその一流が伊勢国に下向し、伊勢神宮に奉仕する神官の一家となり、その分かれが一志郡榊原に住して、榊原氏を称したとする説がある。 『古代氏族系譜集成』に収められた榊原氏系図によれば、秀郷の後裔佐藤季清の弟公澄の孫基家は伊藤氏を名乗り、その孫の景清は悪七兵衛を称し、平氏の家人として知られている。基清の嫡子基之の流れが伊勢に土着したと記されている。そして、家紋の「源氏車」は、佐藤氏の代表紋であり、また外宮奉献の白布につけられていたのが車輪紋で、それらを合わせて家紋にしたというのである。家紋からみた場合、こちらの出自説の方が説得力が高いのではないだろうか。 いずれにしても、清長の孫康政は天文十七年(1548)の生まれで、家康より六歳年下である。康政は最初、松平宗家に対抗した酒井忠尚の小姓であったが、永禄三年(1560)はじめて家康に対面し、側近として仕えた。時に十三歳であった。 三河一向一揆で初陣し、家康の諱の一字を与えられた。永禄七年の吉田城攻めには旗本の先手となり、以後諸合戦でも必ず先鋒とされた。旗本先手役には、康政のほかに本多忠勝・大久保忠世・大須賀康高などがおり、常に家康の側近にあった。 小牧・長久手の戦いのとき、小牧城の守備を命じられたが、家臣ともども決死の覚悟のほどを言上し、家康を感服せしめた。のち、康政が秀吉のもとに参上したとき、康政の家康への忠義に秀吉は大変感心したという話が伝えられている。 関東入国後、はじめ上野館林城十万石を領した。関ヶ原の戦後、井伊直政・本多忠勝とともに、諸将の忠・不忠を糺すなど天下の政事に関与した。子孫は、姫路城十五万石、のち越後高田藩主に転じて明治維新を迎えた。 ■参考略系図 *清和源氏仁木氏を出自としたもの。 ■秀郷を祖とする榊原氏系図はこちらをご覧ください。→ |