酒井氏は松平氏と同祖おtもいわれる。これは松平家の初代の親氏が、酒井氏の祖広綱の父であるとの伝承によるものである。しかし、これには異説があって確定はできない。とはいえ、酒井氏は古くから松平氏と密接な関係があったらしい。三河国には碧海郡に酒井村があり、幡豆郡に古く坂井郷があって、そのいずれかが酒井氏の発祥の地とされ、もと大江姓であったともいわれる。 二系の酒井氏 伝承によれば、この酒井氏の女と松平親氏の間に生まれたのが広親で、松平家臣酒井氏の祖といわれている。後世、広親の長男氏忠の系統を佐衛門尉酒井氏、次男の家忠の系統を雅楽守酒井氏とよばれる。 雅楽頭系の正親は家康の祖父清康に仕え、家康誕生のとき「御胞刀」の役をつとめた。正親は松平宗家の家老であった。正親の第一の功績は吉良氏の居城西尾城を攻略し、のち吉良義昭を降伏させたことである。これにより、西尾城を与えられた。以後、三河一向一揆・掛川城攻め・三方ケ原の戦いに軍功があった。 正親は天正四年(1576)に死去、嫡子の重忠が関東入国後、川越城で一万石を領した。嫡孫の忠世は十二万余石の大名となり、曽孫忠清は大老となり世に下馬将軍と称されるほど権勢を振るった。子孫は播磨姫路城で十五万石を領した。 一方、左衛門尉系には「徳川四天王」の随一の忠次がいるが、忠次以前の先祖の事蹟は不明である。これは、同系の忠尚が家康に謀叛したことによるのかも知れない。忠次は家康より十五歳の年上で、家康の叔母(広忠の妹)を妻とし、家康の父広忠以来の老臣で、諸合戦では常に先鋒をつとめた。 永禄七年(1564)、三河国吉田城を与えられ、東三河の国人集を配下とする旗頭となった。その後の諸合戦でも知謀の将として多大の軍功があった。とくに小牧・長久手の戦いでは家康から「国家の安危この一挙にあり、ひとへに汝が計策によるべし」よいわれた。その子家次が関東入国後、下総国碓井城で三万石を領し、のちに越後高田十万石、孫忠勝の代には出羽庄内十四万石を領する大名になった。 ■参考略系図 |