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土屋氏
三つ石/九曜
(桓武平氏良文氏流)


 土屋氏は、相模国中郡土屋郷を本領とした。桓武平氏良文流で、平安末期、中村庄司宗平の三男宗遠に始まる。兄に土肥次郎実平、弟に二宮四郎友平があった。土肥実平は、治承四年(1180)源頼朝の旗揚げ以来、長男の遠平とともに参加した。このとき、実平の弟土屋三郎宗遠も子の宗平、養子の義清とともに加わっていたのであった。
 以後、実平の活躍はさまざまなかたちで世に知られているが、宗遠のことはあまり知られない。とはいえ、兄実平に密着して行動をともにしていたのだろう。そして、鎌倉幕府成立後は、宿老の一人として主だった儀式などには必ず参加していたようだが、いささか影の薄い存在であったようだ。

室町期の土屋氏

 その後、室町時代にいたり、明徳の乱で土屋宗貞が山城国で一族とともに討死した。この事件を書いた『明徳記』にも「土屋党」とみえている。土屋氏は山名氏の有力な被官であった。宗貞の一族は、おそらくこの土屋氏の一族であったのであろう。また、観応の擾乱(1352)のころ、出雲国法喜・末次両庄が京都東福寺領であるとの請文を出した土屋秀遠は、宗貞の曾祖父であった備中守秀遠であろう。
 末次庄は鎌倉時代以来、土屋氏が地頭であった。土屋氏はこのほか出雲国内で持田庄・大東庄・忌部保・千酌郷などを一族が所領とした。秀遠はその出雲土屋氏の一族であったかと思われる。土屋氏が出雲国にこのように所領を得たのは、承久の乱(1221)で幕府方として活躍し、その勲功として与えられたものであろう。
 応永二十三年(1416)に起こった上杉禅秀の乱には、関東の諸豪族で禅秀に味方して失脚するものが多かった。土屋氏遠・景遠父子も土肥氏とともに、禅秀に味方して所領を没収された。甲斐国守護武田信満・信長父子もその例外ではなかった。禅秀の乱で没収された土屋・土肥両氏の所領は、駿河国の大森氏に与えら、大森氏は小田原城を取り立てて相模国に移った。秀遠は備中守、氏遠は豊前守、その子景遠は豊前守を称したことが知られている。
 『鎌倉大草紙』は、武田信長の子伊豆千代丸を「土屋が娘の腹に生れし子」としている。「土屋系図」にも、土屋氏遠の妹が信長の室であると記している。氏遠・景遠父子は禅秀の乱前後に信満・信長父子に属したようである。氏遠は武田氏に属して甲斐国で死んでいる。乱後、紆余曲折を経て武田信長は公方足利持氏のもとに帰参した。景遠は、鎌倉御所へ仕える信長にしたがって、鎌倉にいたようである。そして、鶴岡八幡宮神主大伴時連の娘を嫁にしている。
 景遠の子勝遠は守護武田信昌の娘を妻とした。このころ、北条早雲は小田原城を乗っ取り、城主であった大森藤頼は真田城に逃れ、甥の泰頼は大伴時信もともに甲斐国の逃れた。この両氏を勝遠は受け入れて、扶持したようである。

武田信虎への忠節

 その子信遠は武田信虎に仕えた。その信虎が天文十年(1541)実子晴信に甲斐国を追放されたとき、信遠の子昌遠は信虎にしたがって駿河国へ移った。同十二年、信虎は将軍足利義輝の招きで上洛し、石山本願寺で証如上人にも会っている。その後、信虎は帰国しようとして信濃国伊那で没したため、昌遠は高野山にのぼり、のち駿河l国大平郷にある先祖の菩提所である真光院に移り住んで、天正三年同地で死んだ。
 天文年間、駿河国守護今川義元は、大平郷内の八社神田を星谷氏に預けた。そのとき、「土屋名職」も同氏に管理させている。この土屋名職はおそらく真光院を菩提所とした土屋氏の名田であろうと思われる。また、真光院を先祖の菩提所と称していることは、昌遠の先祖がこの大平郷を領有していた可能性を思わせる。
 昌遠の子は眼病で盲目となり、父の死後、母と外祖父菅沼定則の所領、遠江井伊谷に移り、のち今川義元のところに人質としてあった竹千代(のちの徳川家康)に仕え、義元の子氏真の請われてその家臣となり、ついで小田原に出て北条氏政に仕えた。彼は円都と号し検校に取り立てられ氏政の使者として上洛した。その途中、井伊谷の菅沼忠久らが家康に従わないので、家康からその説得を頼まれている。
 天正十八年、小田原攻めのとき、家康は井伊直政に円都を城外に誘い出させた。このとき、氏政は円都に辞世の句を預けたという。慶長五年、関ヶ原の役のころ京都にあた円都は、再三石田三成に誘われたがこれを拒み通した。戦後、一族は徳川氏の旗下になった。
 一方、山名氏の有力家臣であった土屋氏は、明徳の乱後も侍所頭人あるいは山城守護であった山名氏のもとで、土屋越前守がその代官を務めている、越前守は熙俊を名乗っていたという。のちに土屋から垣屋(谷)に改め、八木・太田垣・田結庄氏らとともに、山名氏の四天王といわれた。


■参考略系図
    


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