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杉 氏
枝牡丹
(多々良氏族大内氏支流?)
『長倉追罰記』に杉氏の紋「キボタン」とある。 キボタンとは枝牡丹のことであろうが、大内氏 守護代杉氏の家紋をいったものかは不明。


 周防の戦国大名大内氏の分かれとされるが、出自については明らかではない。室町・戦国時代、陶・内藤氏と並んで大内氏三家老に列せられた。宗家は長門守護代に任じられるなど、杉氏一族は八本杉とも称せられて威勢を振るった。しかし、大内氏天文の変が起こると、わずか六年間のうちに六家が滅亡し、残る二家は毛利氏に帰属した。
 杉重道は、応仁・文明の乱中、大内政弘に従い在京した。文明九年(1477)正月、山城の狛陣所で宗祇、政弘を招いて百韻連歌を催した。風流の人で、長門国美祢郡大嶺にあった重道の山家は、宗祇の著わした『筑紫道記』に「都にもかかる所侍らむやは」と称賛されている。

大内氏の重臣

 重道の子武道は、大内政弘から義興初期にかけて奉行人を務めた。御礼奉行、宇佐宮行幸会奉行、興隆寺二月会大顔役を務めたことが知られている。また文人でもあり、明応八年(1499)、正平版『論語集解』を復刻したことは有名である。その子興道も文人として知られ、大内義隆の奉行人。大永五年(1525)興隆寺二月会大顔役。亨禄四年(1531)宗碩下向の際、連歌会を張行している。「天文日記」には「門下ニ対して能人」とみえる。
 杉興長は義興期から義隆初期にかけての筑前守護代。筑前に在国して領主的側面を強化している。子の興運も筑前守護代を務めた。「石清水文書」には「筑前守護」と記されている。天文十九年(1550)七月従五位下に任じられた。しかし、翌年九月陶氏等のために自害した。
 大内義隆期の豊前守護代を務めたのが杉重矩であった。初め重信と名乗り、天文七年(1538)十二月従五位下に任じられた。陶隆房(晴賢)の謀叛には、はじめ対立したがのちに同心して大内義隆に背いた。のち、再び陶と対立して、長門国長興寺に自殺した。
 父重矩を陶によって害せられた重輔は、弘治元年(1555)、晴賢の子長房を殺害して、その首を毛利元就のもとに持参し、大内氏と毛利氏の和議を図ろうとしたが、翌二年、内藤隆世に攻められて自刃した。このとき、嫡子重良は山口にいたが、同三年、毛利氏の山口占領後、四歳で杉氏の家督相続を許され、周防国熊毛郡・吉敷郡などに所領を安堵された。
 重良は、天野隆重の補佐を受けて、永禄元年(1558)より父の居城であった豊前松山城に在番し、一時大友方に城を占領されたこともあったが、同六年、ついで十一年の大友氏との合戦では、敵数人を討ち取るなどの戦果を挙げた。永禄三年には、興隆寺二月会大顔役もつとめた。
 天正七年正月、大友方に離反したが、嫡子元良は、母が毛利氏譜代筆頭・福原貞俊の娘であったことから断絶を逃れ、知行地を安堵された。以後、毛利氏の家臣として存続した。毛利氏家中における家格は大組であった。
 毛利氏に帰属したもう一家、杉隆相は陶氏と運命をともにした野上氏の遺領野上庄を領したが、天正十七年(1589)その子元宣が夭死して没落した。


■参考略系図


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