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斎藤妙椿


 斎藤氏の系図は『尊卑分脈』に収められているが、室町時代初期で途切れている。それもあって、美濃斎藤氏の系譜には信頼すべきものがないといされるが、そのようななかで『美濃国諸家系譜』『百家系図』の「斎藤氏系図」は、比較的信頼できるものとされている。
 斎藤氏は帯刀左衛門尉親頼が美濃目代となったのが、美濃と関係をもった始めとされる。親頼は「承久の乱(1221)」で朝廷方に味方して幕府方に敗れたが、『美濃国諸家系譜』にはその子親利も美濃目代に任じられたとある。そして、利康の代に美濃守護土岐氏に従って被官になり、曾孫の利政は土岐氏の執権=守護代になった。
 斎藤氏は美濃守護土岐氏の執権として美濃に勢力を拡大し、利政の子利永は守護持益を追放するまでの存在になった。しかし、後世にみられる下剋上のように、主家に代わって自らが美濃の国主になるということはなかった。あくまで、守護土岐氏の家政をみる立場に終始していた。
 利永のあとを継いだのが有名な妙椿で、従来は妙椿と利永の嫡子利藤とは同一人物とされていた。すなわち、利永のあとを継いだ利藤が入道して「妙椿」を号したとするものである。たしかに利永のあとを継いで守護代となったのは妙椿だが、妙椿が死去したのちに利藤と妙椿の養子利国との間で内訌が起っているの。このことは、利藤と妙椿が別人であることを示している。
 では、美濃守護土岐氏の守護代として権勢をふるった斎藤妙椿とは、斎藤氏のなかでどのように位置付けられる人物なのであろうか。

■参考略系図
・『美濃国諸家系譜』『百家系図』『美濃の土岐・斎藤氏』などから作成。  
  


 
  
斎藤妙椿の実像

 妙椿の経歴を考証したものに『美濃の土岐・斎藤氏』があり、それによれば、妙椿は斎藤利永の弟であると論考されている。利永は寛正元年(1460)に逝去し、そのあとを継いだ妙椿は文明十二年(1480)に七十歳で死去したことが知られる。
 利永の死因は中風であったようで、その清廉かつ慎重な人柄もあって、その死を惜しまれた。おそらく、利永はにわかに脳卒中で倒れ、ほどなく死去したものと思われ、おそらく享年は五十歳前後であったと思われる。この利永の享年から推して、利永と妙椿とはほぼ同年代であったことになり、兄弟説が信憑性を帯びてくるのである。
 利永の死によって守護代は嫡子利藤に引き継がれたようだが、まだ若い利藤を叔父に当たる妙椿が後見役として補佐したのであろう。
 そして、妙椿は利永の弟で善通寺と称された人物と同一人であったとみられる。その傍証としては、五山派の禅僧東沼周巌の詩文集『流水集』のなかに、「美濃に三位(源頼光)の子孫(土岐氏)がおり、その副将に斎藤越前守(利永)がいる。利永の弟に善恵寺があり、かれは兄利永がなくなると、兄の遺跡を継いで国政に当たることになった。文武両道に秀で、また公務の余暇には香を焚いて仏前に座し、浄土宗の本尊たる阿弥陀仏を拝し、執務室には浄土教の経巻が置かれている。(以下略)」とあり、ここに出た善恵寺こそ妙椿その人と考えてまず間違いないだろう。
 中世の武家は、嫡子以外の男子を仏門に入れる例が多かった。そのことは、くじびきで室町将軍家となった義教、守護大名今川家を継いだ今川義元など、幼いころに出家し家督を継ぐものが絶えたとき、還俗して家督を継いだことはよく知られている。おそらく、利永の弟に生まれた妙椿も、幼いときに出家させられて、善恵寺で修行していたものではないか。そして、利永が亡くなったときには、善恵寺の住職になっていたと思われる。
 妙椿は甥の利藤を後見するため、善恵寺を出て加納城に移り、持仏堂と居庵を設けて「持是院」と名付けそれを自らの称号ともした。妙椿は幼いころより僧籍にあったため妻帯はしていなかったが、加納城に移ったのちに北畠氏から妻を迎えて一女をもうけている。そして、利藤の弟利国を養子に迎えて同居するに至ったようだ。
・斎藤入道妙椿の軍旗

妙椿後の内訌

 妙椿は甥の利藤を後見する立場ではあったが、妙椿の政治力は利藤のそれを凌駕し、実質的には妙椿が守護代の立場として土岐氏を支え、応仁の乱の過程で妙椿が押領した荘園は八万石という広大なものであった。利藤は妙椿のかげに隠れて、守護代としての職務は無かったものと思われる。
 文明十二年、妙椿が死去すると、妙椿の遺言もあって養子利国が土岐氏から重用された。当然ながら利藤は不満をもち、幕府に近付き幕府の命令をもって利国を退けようとした。かくして、利国と利藤兄弟の間で家督をめぐる戦いが勃発したのである。
 戦いは土岐氏を後楯とする利国の勝利となり、負けた利藤は近江の六角氏を頼って逃れたようだ。その後も利藤の抵抗は続き、一連の戦いのなかで斎藤氏の重臣石丸利光が急速に台頭した。さらに、土岐氏の家督争いが加わり、石丸利光は土岐成頼・利藤と結んで利国と対立するようになり、事態は「船田合戦」へと発展していくのである。
 斎藤妙椿の登場で、美濃守護土岐氏は応仁・文明の乱において主導的立場に立ち、斎藤氏は勢力を大きく伸張させた。しかし、妙椿が美濃を牛耳ったことが、斎藤氏の内訌をよび、土岐氏に紛争を招き、結果を見れば美濃国を争乱に叩き込んだともいえそうだ。
 妙椿の実力は京においても高く評価されていたが、かれが死去したとき、これで世の中が静謐になると喜ぶ公家もいた。妙椿は油断のならない人物として、あまり好かれる存在ではなかったようだ。

トップ画像:英雄百人一首『(緑亭川柳(川柳金蔵)』から

参考資料:美濃の土岐・斎藤氏/岐阜県史 など】
 
  

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