三宅は屯倉とも書き、朝廷の直轄領にある役所や倉をいった。古代より、渡来系あるいは神別の大族として西日本に分布した。備前国児島地方を本拠とする三宅氏は、古代の三宅連の裔とも佐々木氏の支流ともいわれる。南朝期の武将児島高徳も三宅一族といわれている。 戦国時代、摂津の国人として活躍した三宅氏がある。摂津三宅氏は、中臣鎌足の流れをくむ関白 藤原道兼(北家)より五代目の宇都宮三郎朝綱に始まる下野の守護大名宇都宮家の分かれという。 宇都宮家の六代目・治部大輔公綱が元弘の変に北条軍に属して奈良に駐留し, 建武政府が成立すると入京した。この時、摂津で子が生まれ、その子広綱が永徳二年(1382)七月に三宅城を攻めて功があり、その行賞として三宅邑を得た。そして、その次男の村綱が始めて三宅姓を名乗り、明徳元年(1390)八月に管領細川頼之より摂津目代に任じられた。 戦乱を生きる 応仁の乱には、東軍の細川勝元に与して、薬師寺与一に率いられた摂津国人衆の一員として、戦闘に参加。以後十一年間にわたる戦乱の幕を斬って落とした。西軍の局面打開のため周防の大内政弘軍が上洛、この戦で三宅三郎は戦死し、池田氏らとともに大内氏に降った。文明元年(1469)七月摂津地方が戦場になったときは、東軍に帰参し、山名是豊が大内氏を追って兵庫より山崎に向かう途中、三宅館に陣を構えた。 永正四年(1509)、細川澄元と高国が家督を争ったときは、高国方に属して。摂津国衆伊丹・河原林氏らと池田城を攻め落城させている。同八年、高国は三宅・池田・茨木・太田・入江氏らの摂津国衆を堺に差し向けたが、和泉の深井での合戦に敗れ、この時三宅和泉守が戦死している。のち、池田・三宅・吹田氏らは晴元方に転じて、高国方の伊丹国扶ら伊丹衆と戦った。以後、三宅氏はめまぐるしく揺れ動く摂津にあって、権謀に身を処すことを保身の術として動乱の時代を生きた。 天文十七年(1548)、晴元がその執事三好長慶と対立を深めたとき、三宅氏は長慶側に属した。翌十八年三月、三宅城は晴元方の香西元成に攻められて落城。以後香西元成が三宅城に拠った。しかし、六月長慶軍の攻撃で晴元は三宅城を棄てて、近江に逃れた、ここに三宅国村が三宅城主として返り咲いた。 天文二十一年(1552)長慶は足利義輝を京都に迎え、細川氏綱を管領とした。しかし、翌二十二年義輝は晴元を召し返そうとしたため、長慶の怒りにふれて追われた。三宅国村は丹波攻めの軍に加わり、三宅城は一族の村良が守った。このとき、香西元成らに攻められて三宅城は落城、村良は討死した。 その後、長慶は絶頂期を迎え、河内守護畠山高政と対立した。そして永禄五年高政と教興寺に戦い大勝した。この合戦に三宅出羽守は畠山軍に一味して没落した。以後、三宅氏は中川氏の家臣となり、中川氏の播磨国三木への転封、さらに文録三年(1594)の豊後国岡への転封に伴って三宅一族も岡へ移り、その地で明治維新を迎えた。
■参考略系図 |