室町期の常陸守護佐竹義篤の庶長子義躬が、那珂郡に小場城を築いてそこに拠ったことから小場氏を称したことに始まる。四代義実のとき、佐竹宗家十七代義篤と、その弟の部垂城主義元との家督争いである「部垂の乱」に巻き込まれ、義実は討死した。 『新編常陸国誌』によると、「小場城は佐竹式部大輔義実の居城なり、部垂没落のとき討死す。小場氏は佐竹義篤の第二子義躬より出でたり。康安二年(1362)義篤よりその子義香への譲状の内に、大炊助義躬分は、常陸国那珂西伊勢畑郷、久慈西塩子郷、多賀庄関本郷五分四、西荻窪五分四、別府村、那珂東小庭村、那珂西中泉村は京御方一期後行すべきなりと見ゆ。京御方とは、義躬の母、義篤の妾なり」と、小場氏の来歴が簡潔に記されている。 小場義実は、文亀元年(1501)十一月、佐竹義舜を名付け親として元服した。しかし、義舜の三男の四郎義元が、佐竹当主となっていた兄義篤に叛旗を翻したとき、義実はこれに与して佐竹宗家と戦い、天文九年(1540)三月の合戦で討死した。 義実の子義忠は男子がなく女に佐竹義昭の三男を婿養子として迎えた。これが義宗で、義重の弟にあたる。このため、小場氏の佐竹一族中における地位は、北・東・南家と並んで高くなった。義宗は、那珂川の対岸にある大山城に拠った同じ佐竹一族大山氏と所領問題などでたびたび紛争を起こしていたが、永禄十三年(1570)十二月と天正四年(1576)三月と、二回ほど和解の証明として大山氏と起請文を交わしている。その後、家督を子の義成に譲ったが、それ以降も佐竹一族の有力者としての信頼を集め、多賀谷重経・君島高親などから書状などを送られている。 義宗は父から家督を譲られ、従兄弟にあたる佐竹義宣のよき協力者となった。天正十七年、義宣に従い、家臣たちを率いて、陸奥白河で伊達政宗と戦った。翌年、豊臣秀吉の小田原出陣が間近になったとき、下野高田専修寺の尊紹から義宣の参陣を促す書状を受け、これより少し前には芳賀高継から同様の書状を送られている。 そして、同年五月、義宣に従って小田原に参陣し、秀吉へ太刀・馬・金を進上した。文禄二年(1593)の挑戦出兵に際しても、肥前名護屋に在陣した。慶長五年(1600)の佐竹藩内の領地再編で、小場氏は小田城に移城、小場城には大山義喜の子則宗が入った。 慶長七年(1602)佐竹氏の秋田移封に従って、秋田大館に移り、寛永十年(1633)十二月、その地で没した。以後も、小場氏は秋田佐竹氏の重臣として続いた。 ■参考略系図 |