> 荒尾氏は鎌倉御家人として知られ、尾張国知多郡にある荒尾郷を名字の地としている。現存する荒尾氏に関する文書などからも、荒尾郷および尾張国中島郡に所領をもっていたことがうかがわれる。 荒尾氏の存在は鎌倉時代から知られるが、確かな史料にあらわれるのは嘉暦二年(1327)に、荒尾宗顕が養子親真に与えた書状である。そして、応安五年(1372)の『大徳寺文書』に宗顕の子泰隆の寄進状がみえる。また、後醍醐天皇の討幕の謀である元弘の変に際して、荒尾五郎・九郎の兄弟が幕府方として出陣、笠置城攻めに従軍した。しかし、天皇方の足助重範の強弓によって、兄弟ともに討死したことが『太平記』にみえている。荒尾五郎・九郎と先の荒尾宗顕とは同時代の人物と思われるがその系譜的関係は不詳である。 荒尾氏の出自を探ると、高階姓を称する説と在原氏を称する説とがある。『古代氏族系譜集成』では在原氏として取り上げ、のちに徳川氏となる松平氏と同族となっている。一方、『尾張群書系図部集』において復元された荒尾氏系図は宗顕を初代とし、別に高階系図を紹介している。いずれにしろ、そのはじめはもとより、鎌倉時代から室町時代における荒尾氏の記録はほとんどなく、その系譜・出自に関しては不明というしかない。 南北朝時代を経て室町時代になると、荒尾氏は幕府奉公衆として活躍を示すようになる。室町幕府は将軍が守護に推戴された政権という側面を有し、大きな権力を有する守護はみずからの分国の領国化をめざした。守護の領国化は小領主たちを守護の被官に組込むことでもあり、それに抵抗する領主たちは将軍に結びついていった。すなわちみずからの領地を将軍に献上、その代官として将軍権力に直結したのであった。それは、守護の勢力拡大を警戒する将軍の意に沿うところでもあり、荒尾氏は奉公衆として守護権力と対峙する存在として行動したのである。 ちなみに、将軍足利義政の時代に成立したという『見聞諸家紋』には、「荒尾氏 九曜」と奉公衆荒尾氏の幕紋がみえている。奉公衆の編成を記した室町幕府の番帳にも、荒尾氏の名が散見している。 乱世を生きる 応仁元年(1467)に起った応仁の乱を契機として、世の中は乱世の様相を濃くした。下剋上が横行し、幕府将軍の権威は失墜、守護大名の権勢にも翳りがみえるようになった。そして、群雄が割拠する戦国時代になると、荒尾氏ら小領主は時代の荒波に翻弄されることになる。そのようななかで、荒尾氏がどのように行動し、どのように過ごしたかの記録はない。そのことそのものが、乱世のなかで荒尾氏が置かれた過酷な状況をうかがわせる。 荒尾氏が戦国史上に登場してくるのは、荒尾小太郎空善のときで、空善は知多郡木田城主であった。空善は今川氏の尾張侵入によって戦死、知多郡大野城主佐治為貞の子善次が空善の婿となって荒尾氏を継承した。善次は荒尾村を領して新興の織田信長に属し、今川勢を木田城に拠って防衛した。 弘治元年(1555)、今川義元が尾張への侵攻を開始、同三年には知多の諸将らは今川氏の軍門に降った。善次も今川氏に服属したようで、永禄三年(1560)、桶狭間の戦いで義元が信長に倒されると微妙な立場におかれた。結果、娘の嫁ぎ先である池田信輝(恒興)の子古新丸(のちの輝政)を家督に迎えて、みずからは隠居し荒尾氏を存続させたのである。その後、古新丸は実家に帰り、善次の実子善久が荒尾氏の当主となった。しかし、善久は元亀三年(1572)の三方ヶ原の戦いで戦死したため、次弟成房が家督を継承した。 成房は信長に仕えて長篠の合戦に出陣するなど各地を転戦した。のち、池田恒興に仕え、恒興が小牧・長久手の戦いで戦死すると、従兄弟でもある輝政に仕えた。成房の弟隆重も輝政に仕え、兄弟揃って輝政の家老として活躍した。成房は遠江守ついで但馬守を称し、隆重は志摩守を称したことから、成房の流れを「荒尾但馬」、隆重の流れを「荒尾志摩」とよばれた。 池田氏が鳥取と岡山に分かれたとき、荒尾両家は鳥取池田に仕え、荒尾但馬家は米子城代、荒尾志摩家は因幡国倉吉の地を領して、それぞれ池田氏の藩政を支えた。子孫は明治維新を迎え、華族に列せられている。・2007年04月24日 【参考資料:愛知県史/知多郡史/東海市史 ほか】 ■参考略系図 ・『古代氏族系譜集成』『尾張群書系図部集』の荒尾氏系図などから作成。 |