織田信長に仕え、のちに徳川家康に仕えて五千石の知行を与えられた尾張の岡田氏がある。 源満政の玄孫重実は八島冠者を称し鳥羽院の武者所であった。嫡子の重遠は浦野四郎を名乗り、弟らはそれぞれ佐渡・山田・葦敷を名乗った。重遠の子重直は浦野太郎を名乗り、尾張国河辺に住して河辺冠者を称した。また、弟の重房は尾張国知多郡阿久比郷小河に住んで小河氏を称した。重房の子重清は源頼朝に仕え、同国春日井郡山田庄水野に移り、山田あるいは水野を称したという。このように重遠の子孫は、尾張国に広がり世にいう尾張源氏となった。 浦野重直の子重満は山田太郎を名乗り、養和元年三月、美濃国墨俣川の合戦で源行家父子らと討死している。重満の子重忠と孫の重継は、承久の乱に際して宮方に与して重忠は嵯峨野で自害、重継は捕らえられて処刑された。また、重満の弟重長は足助を名乗り、承久の乱に孫の重成が後鳥羽方として戦い討死にしたと伝えられている。 系図によると、山田泰親の代に鎌倉幕府に仕えて、尾張国愛知郡菱野邑を賜った。元弘・建武のときは重綱が宮方に属して戦功が有った。応永六年、大内義弘が謀叛におよんだ時、重章は斯波義重に従って出陣、その後の嘉吉の変に際しては細川持常に従い、赤松氏の拠る播磨国白旗城の大手攻めに加わっている。以後、斯波氏に属し、重賢は応仁の乱には斯波軍の一員として山名宗全軍に加わり戦功が有った。 重賢の子重篤は山田を改めて岡田与七郎を名乗り、以後岡田氏を称した(重政が尾張国知多郡岡田村に住して、岡田与二郎を称したという説もある)。重篤は、はじめ斯波義廉に属していたが、後に織田左馬健介敏信に仕えた。重篤の孫が重善で。かれは織田信秀に仕えて、天文十一年(1542)八月、信秀が今川氏と戦った三河国小豆坂の戦いに奮戦し、小豆坂七本槍の一人に数えられている。信秀死後は信長・信雄に仕えて、同国星崎城を本拠とした。 重善の嫡子長門守直孝は天正十二年(1584)三月に、故あって長島城にて生害したことから、次男の善同が岡田氏の家督を継いだ。善同は幼時より信長に勤仕、信長死後、ある時期には加藤清正に仕えて、加藤氏を称したときもあった。その後、家康に仕えて、美濃国に五千石を与えられた。その子の善政は幕府勘定奉行を勤めて知行を増し七千二百石となる。その後、分与などで庶家を出し、知行が減ったが、五千三百石の旗本家として続いた。 ■参考略系図 |
●Ver.1 系図
|