大橋氏の分布は東北から九州まで全国的で、地名も各地にある。流れとしては、文徳天皇の子源能有を祖とする文徳源氏の大橋氏、清和源氏賀茂二郎義綱の子孫、藤原氏秀郷流小山氏から分かれた佐野氏の裔、桓武平氏貞盛の子孫などがある。大橋氏は現在、中部地方に多いという。 戦国時代、尾張国津島に大橋氏が割拠していた。尾張の大橋氏は上記の桓武平氏・平貞盛の子孫で、文治年間(1185〜90)の平貞能が筑後守・肥後守に任じられ、その子左衛門尉が肥後国山本郡大橋に下向大橋城主となって大橋を称したのが始まりである。はじめ、平家の家人であたが、その没落後源頼朝に随従して御家人に列した。 貞能は隠居地として尾張国海東郡内に所領を得たといわれ、その地がのちに尾張大橋氏の拠点となり、南北朝の内乱期を経て、戦国時代に至って大橋重一が出た。南北朝期は宮方に属し、和泉守信重は「津島大納言」と呼ばれ、実は良王親王嫡子であった者が大橋信吉の養子となったと伝えている。信重は奴野屋城主であった。 尾張の国人領主に成長 尾張国津島には、「四家・七名字・四姓」の土豪よりなる南朝方「十五党」があった。四家の長は大橋氏で、戦国初期の当主が重一であった。重一は大永二年(1522)、美濃国高須城を築造あるいは修築している。 高須城は長良・木曽両川を挟んで津島と接しているのであるが、大橋氏は次の重長のとき、尾張国清洲城主織田氏と領地を争っている。「大橋の乱」である。尾張国にはまた、織田信貞の子で勝幡城主の信秀がおり、重長(重定)は、信秀と抗争を続けたが、ついには信秀の女蔵を嫁として迎え、やがて信秀に属するようになる。 重長の高須在城は、天文三年までで、同年より弘治二年(1556)までは高津直幸が城主、翌年より永禄三年(1560)までは、津島十五党の"縁者"が守将に名をい列ねる。平野長治・恆川信景・鷲巣光康・秋山信縄・林長正・林正三・稲葉正成らである。このうち、稲葉正成は斎藤福こと後の春日局を後妻とする人物で、福の父が信長を本能寺に屠った明智光秀の老臣の斎藤利三である。 なお十五党には、のち秀吉に仕えて伊勢国松坂城主の服部一忠や、春日局の養子となり老中まで上り詰める堀田氏の先祖、さらに平野長治が賎ヶ岳の七本槍の一人として知られる長泰である。 重定の子が重賢で、滝川一益に仕え、一益没落後は福島正則に仕えた。しかし、正則も改易処分となり、結局松平出羽守直政に仕え、家老職を勤めたという。一族には、帰農した者もいる。 徳川旗本の大橋親善・親重兄弟、小田原北条氏家臣の大橋山城守、戦国期浅井亮政に仕えた大橋秀元らも、肥後大橋流であると伝える。 ■参考略系図 |
●Ver.1 系図
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