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木戸氏
片 喰
(藤原南家熱田大宮司族)


 室町時代、古河公方の側近家臣の有力者の一人に木戸氏がいた。たとえば、享禄元年(1528)十二月、足利晴氏の元服式に際して「御荷用の人数」のなかに登場する木戸兵部少輔、天文年間後半(1545〜55)頃に、晴氏・藤氏の使者として下野の小山氏のもとへ行った木戸左近大夫将監らの名を確認することができる。
 木戸氏は栗橋城主であった野田氏と同族といわれ、下野国足利荘木戸郷を名字の地とする足利氏の家臣であった。十四世紀後半の一時期、上杉憲方が下野守護となった時、木戸法季(左近将監貞範)はその守護代をつとめた。その孫とされる持季の左近大夫将監は、結城合戦に際して結城城に籠城して討死している。これらのことから、木戸氏の主流が鎌倉公方足利氏に属していたことが知られる。そして、天文の頃、足利晴氏の側近で活躍していた木戸左近大夫将監は、その官途から持季−左近大夫将監の子孫と考えられる。

羽生城主─木戸氏

 ところで、戦国期になると古河公方側近の木戸氏の他にもう一つの系統の木戸氏の活躍が目だってくる。それが、羽生・皿尾城の木戸氏である。こちらの木戸氏は持季の弟範懐の子孫とされるが、史料上に名を確認できるのは歌人として知られる大膳大夫範実からである。そして範実には直繁・忠朝という二人の男子があった。
 天文五年(1536)、直繁・忠朝が羽生の小松社に奉納した懸仏に銘文が刻まれ二人の名前が確認できる。これが、史料上に直繁・忠朝が登場する最初である。かれらの父範実の祖父孝範は、江戸城主の太田道灌の客将となっていたというが、先の懸仏の存在から、天文五年以前に範実・直繁・忠朝の父子・兄弟が羽生城の城主となっていたことは間違いない。
 古河公方側近の木戸氏とは異なり、羽生城の木戸氏は初めから上杉氏に属していた。それゆえ、孝範の代には上杉氏側に立って、古河公方成氏と対立していたとも考えられる。しかし、後北条氏の相模・武蔵進出という事態のなかで、上杉氏と古河公方が接近するようになると、羽生木戸氏も足利高基・晴氏と親しい立場をとるようになった。範実父子の羽生城入城もそうした政治状況と不可分の関係にあったと思われる。つまり、上杉氏は武蔵に進出を続ける北条氏綱・氏康父子に対抗して羽生城を取り立て、そこに配下の木戸範実父子を配置し、北武蔵における上杉方の拠点としようとしたのである。以来、羽生木戸氏は天正二年(1574)にいたるまで、その重責を果たし続けることになる。
 範実のあと木戸氏の家督を継ぐのは忠朝だが、若干の紆余曲折があった。忠朝ははじめ河越方面の領主河田谷氏の名跡を継ぎ、河田谷右衛門大夫を名乗っていた。そして、永禄七、八年頃に木戸氏に改めた。この頃、忠朝は皿尾城主で、羽生城には兄の直繁が拠っていた。一見、範実の家督は直繁が継いだようにみえるが、直繁は木戸氏の家名を継がず、広田氏の名跡を継いで広田式部少輔と名乗っているのである。

広田直繁・木戸忠朝兄弟

 広田氏は、菅原道真の後裔と伝えられ、武蔵広田郷を名字の地とし、上杉氏と早くから関係を持っていた。しかし、直繁以前の詳細については明かではない。ただ、直繁が広田氏の名跡を継承するにあたっては、父範実の意志もさることながら、上杉氏の政治的思惑も働いていたことと考えられる。直繁は広田氏を名乗りながら、父範実のあとを受けて羽生城主となった。そして、河田谷氏の名跡を継いだ忠朝も直繁とともに羽生城に拠っていた。直繁・忠朝兄弟の間に権限の分掌があったのかどうかは明かではないが、父範実の隠退後は兄弟が協力して羽生城とその城域の支配にあたったのである。
 永禄三〜四年、上杉謙信が関東へ出陣してきた時、直繁・忠朝兄弟は配下を従えて謙信のもとに参陣している。永禄四年(1563)、謙信は成田長泰から皿尾城を奪取し、これを河田谷忠朝に与えた。成田氏は一旦は謙信のもとに参陣しながら、間もなく北条氏に帰参した。謙信は油断のならない成田氏に対する押さえとして、また後北条氏に対する北武蔵の新たな拠点として皿尾城に忠朝を配したのであった。翌永禄五年、成田長泰は皿尾城を奪還しようとして忠朝を攻めた。しかし、忠朝は岩槻城主太田資正の支援を受けてこれを撃退している。このとき、羽生城の直繁も援軍を出したことは疑いない。永禄九年、謙信が常陸の小田氏治を攻めた時、羽生城の直繁が五十騎、皿尾城の忠朝も五十騎で、兄弟併せて百騎は簗田晴助の百騎に匹敵するものであった。
 永禄十年になると、後北条氏の北武蔵攻撃は激しくなり、羽生・皿尾両城は厳しい状態に直面する。羽生城の東から南にかけては古河公方=後北条勢力がひしめき、西から南にかけては、こちらも後北条方の成田・小田氏がいた。そして、北武蔵における羽生城の孤立状況は日増しに強まっていった。謙信もこれに対し、手紙を送るなどして激励しつつ、羽生城の興亡に北武蔵支配のすべてを託していたようである。
 永禄十二年、越相同盟が結ばれ、木戸氏は愁眉を開くことができた。同盟成立後、謙信は反抗的な領主たちを従えようと行動を起こした。このとき、直繁・忠朝兄弟も出陣要請を受け佐野・館林方面へ出馬して戦功を挙げた。その後、直繁は館林城に移り、羽生城には忠朝が入城した。しかし、直繁は長尾顕長に謀殺されたようで、以後、史料上にその名を見せなくなる。

木戸一族の奮戦

 元亀二年(1571)、羽生城では忠朝と子の重朝が配下の兵を指揮して後北条氏の攻勢に対抗していた。重朝の弟範秀も一人前の武将として戦闘に参加していた。この範秀はのちに歌人としてその名を残した木戸元斎その人である。重朝・範秀兄弟の姉妹は直繁の子為繁に嫁ぎ、為繁と重朝・範秀兄弟とは、一層緊密な協力関係をつくり上げていた。謙信から羽生城に送られた手紙の宛名がしばしば、木戸重朝・範秀と菅原為繁の三人になっているのはこのためであった。以来、かれらの結束した力が後北条軍の度重なる攻撃をはね除けていくのである。
 同年、越相同盟が破れ上杉・後北条氏間の抗争はふたたび激化することになる。天正元年(1573)氏政は攻勢を一段と強化し、羽生・深谷方面をうかがいつつ、下野まで戦線を伸ばしてきた。この間、羽生城では三人の奮戦が続いていた。謙信は彼等の「忠信」を賞する一方、関東へ出馬する旨の手紙を送っている。
 翌年二月、謙信は関東に出陣して上野の善・山上・女淵の三城を陥し、三月には羽生城に武蔵進軍を告げ、太田・梶原・簗田氏らに対して軍勢の催促を行った。しかし、謙信は上野大輪に陣をしいたままで羽生の地に足を踏み入れることができなかった。利根川の増水で渡河できなかったのである。四月中旬になると、減水がはじまり、謙信は渡河しようとした。ところが氏政は軍を後方に引き揚げてしまった。謙信は氏政の動きをにらみながらも、由良・長尾氏らに背後から索制されて、結局利根川を渡河できなかった。
 その頃、羽生城では必死の抵抗が続けられていた。謙信は手紙を送って賞賛しつつ、今秋の関東出陣まで持ちこたえてもらいたい、という言葉を残して越後へ引き上げてしまった。謙信帰国の報らせは、忠朝・為繁たちに大きな衝撃と動揺を与えた。
 氏政軍の攻勢はますます強くなり、羽生城の窮地は深まるばかりであった。忠朝・為繁は何度も謙信の出陣を求めた。しかし、謙信は羽生城のほか簗田氏の関宿・水海両城の救援にも当たらなければならず苦戦を強いられていた。それに佐竹義重の出陣も遅れており、謙信や簗田・木戸・菅原氏の形勢は明かに不利であった。十月、為繁は上野・武蔵・下総を転戦中の謙信に援軍の派遣を求めたが、もはや謙信にその余裕はなかった。このとき、忠朝・為繁たちは、もう謙信の力をもってしても後北条軍の攻勢を食い止めることは不可能であると自覚した。
 以後、かれらは悲壮な決意のもとに二か月にわたって最後の抵抗を続ける。そして、閏十一月、謙信は武蔵・下総における氏政との対決の敗北をさとり、自ら羽生城を破却して厩橋城に引き上げていった。このとき、謙信は羽生城の将士を引き取って一旦厩橋城に移し、のち上野の善・山上両城に配置したという。

木戸氏の没落

 これ以後、木戸忠朝・重朝父子の名は史料上から消えてしまう。おそらく彼ら父子は羽生城における最後の合戦で戦死したのだろう。木戸氏で生き残ったのは範秀のみであり、天正六年(1578)上野の三夜沢大明神に願文を捧げ、羽生城への帰城を願っている。また、菅原為繁も羽生への帰城を願うが、範秀と同様二度と羽生の地に足を踏み入れることはなかった。こうして、北武蔵の地で上杉謙信に属して後北条氏の攻勢に最後まで抵抗した木戸氏はであったが、歴史のなかに埋もれて入った。そして、かれら木戸一族が果敢に戦ったことも次第に忘れさられようとしている。
 ところで、郡内上藤井村源長寺は、木戸氏の開基と伝わる。源長寺所蔵の旧記に「木戸伊豆守忠朝、弘治二年築城し、羽生領五万八千石を領せり。天正元年、信玄死去の後 同三年六月、成田下総守氏長のため落城せり」と記されている。しかし、町場城は上杉謙信の持ち城で、その臣木戸忠朝玄斎に守らせたとある。このことから、真偽は一定ではないのである。


●木戸氏の家紋について

 木戸氏の用いた家紋は不詳である。ところで、『関東幕注文』のなかに河田谷右衛門大夫の紋として「かたばみ」が、広田式部大輔の紋として「梅」が収められている。河田谷右衛門大夫とは、木戸忠朝が河田谷氏の名跡を継いでいたときの名前である。河田谷氏は足立遠元の子遠村が河田谷を称したとみえるから、この流れの家を継いだものと思われる。
 ちなみに、足立氏の家紋に剣酢漿草が知られる。「かたばみ」は河田谷氏の紋で、木戸氏の紋は別のものであった可能性はある。しかし、忠朝が用いたこともある紋として、本ページでは木戸氏の家紋として「酢漿草」を掲載した。


■参考略系図
詳細系図不詳。
    


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