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尾藤氏
違い斧/巴
(藤原姓)


 中世の系図集である『尊卑分脉』をみると、藤原北家秀郷流佐藤氏の支流に尾藤氏がみえる。すなわち、佐藤公清の子公澄が尾藤を称し、鎌倉幕府が開かれると御家人に列し、『吾妻鑑』には尾藤左近将監(景綱)をはじめとした尾藤氏の名が散見する。
 戦国時代にあらわれる尾藤左衛門尉知宣が、藤原秀郷流の尾藤氏とどのようにつながるのかは判然としないが、流れを汲んだ家であったとみられる。

尾藤氏、一瞬の光芒

 知宣が出た尾藤氏は、信濃守護小笠原家に仕えて信州中野牧に拠っていたという。天文十七年(1548)、小笠原長時が武田信玄に敗れて没落すると、尾藤氏は遠江引佐郡に移住し、今川氏に属したようだ。ところが、今川義元が桶狭間の合戦で戦死すると、遠江は松平(徳川)家康の侵攻にさらされることになった。情勢の急変に対して尾藤源内は嫡男の又八郎とともに尾張に移り、織田信長の家臣森三左衛門に仕えた。一方、源内の弟で遠江に残った主膳は今川氏に属し、永禄十一年(1568)、堀川城を築き遠江侵攻に備えた。しかし、翌年三月、家康に攻められ一族、城兵とともに戦死している。  その後、織田信長が上洛すると、源内と又八郎父子は森三左衛門とともに近江宇佐山城の守備に任じ、元亀元年(1570年)、朝倉・浅井連合軍に攻められて討ち死にした。源内の二男が知宣で、父や兄と分かれ、のちに長浜城主羽柴(豊臣)秀吉に仕えたという。また、源内の三男久右衛門頼忠は父や兄が去った引佐郡に残り、遠江に進出してきた武田信玄に仕えた。まさに、尾藤一族は乱世のなかで、それぞれが自立した道を模索していたといえよう。  頼忠の長女は真田昌幸に嫁ぎ、大坂の陣で活躍した真田幸村を生んでいる。天正三年(1575)、長篠の戦いで敗れた武田氏が勢力を失うと、頼忠は兄知宣を頼って近江の長浜城へ赴き、秀吉の弟秀長に仕えるようになった。秀長が出世するとともに頼忠も知行を増やし、秀長が大和百万石に封じられると一万三千石を領する重臣に出頭した。そして、次女を豊臣秀吉の寵臣石田三成に嫁がせ、豊臣政権内における立場を強化している。
 さて、秀吉に仕えた尾藤左衛門尉知宣は黄母衣衆・大母衣衆に名を連ね、秀吉家中において神子田正治・宮田光次・ 戸田勝隆らと並び称される武将に出世した。秀吉のもとで戦功を重ねた知宣は、天正五年(1577)、播磨国内で五千石の 知行を与えられた。天正十三年、四国征伐に従軍し阿波木津城を陥落させるなどの功により、讃岐丸亀五万石に 封ぜられた。

知宣の死と一族

 天正十四年(1586)、秀吉の九州征伐が始まると、秀吉家中の同僚である仙石秀久が軍監として出陣した。しかし、戸次川の戦いで大敗を喫した秀久は、秀吉から不覚を責められ所領没収のうえ更迭処分をうけた。そのあとの軍監に抜擢されたのが知宣で、羽柴秀長の下で黒田孝高や小早川隆景といった錚々たる武将たちを差配する立場となった。しかし、翌十五年の高城攻略戦において失態を犯した知宣は、秀吉の逆鱗にふれ、所領没収の運命となった。
 かくして、世を隠れた知宣であったが、天正十八年(1590)、小田原北条氏を降した秀吉の前に伺候して寛恕をこうた。しかし、秀吉は知宣を許さなかったばかりか、下野に護送すると路上において処刑するという酷薄な仕打ちであった。
 知宣の処刑死を知った弟の頼忠は、秀吉の前を憚って尾藤を改め宇多を称した。知宣の長男頼次も叔父にならって宇多を称すと、石田三成の父正継の養子となった。その後、頼次は真田昌幸の娘を娶り、石田頼次と名乗って三成に仕えた。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦に石田三成が敗れると、頼忠、頼次らは近江佐和山城に籠城して城とともに滅亡した。  このように、尾藤氏一族は戦国乱世に翻弄されたが、ひとり残った知宣の二男知則は細川忠利に仕え、子孫は熊本藩士として続いた。・2007年04月24日

参考資料:戦国大名370家出自事典 ほか】



■参考略系図  


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