大須賀氏は千葉氏の一族で、常胤の四男胤信が香取郡大須賀保を領し、陸奥国岩城郡好島庄領所職を得て、大須賀氏を称したのにはじまる。戦国時代、徳川氏に仕えた大須賀氏はその後裔とされるが、その出自はよくわからない。戦国期の大須賀氏は康高が家康の部将として活躍してから世に知れた。 康高は亨禄元年(1528)三河国洞村に生まれた。大須賀氏が徳川氏に臣属したのは康高からであったようだ。そういう意味では、酒井・本多・石川氏のような伝統のある三河譜代とは異なる。家康部将として史書に記されてくるのは、永禄末年の徳川氏の三河統一期である。それ以前の丸根城攻め、三河一向一揆には名前をみせていない。 居住地とされる洞村は岡崎近辺にあり、本多忠勝の居村でもあるから、三河譜代の事蹟があってもよさそうなものであるが、何故か史料上では突然、家康の部将として登場してくる。永禄末年ごろに家康の偏諱を与えられている。さらに天正十年(1582)には松平姓を名乗っているので、家康の部将としては相当の功績があったことと想像できる。 康高は「旗本一手役」の将で、遠州経略の諸合戦には、本多忠勝などとともに常に旗本の先鋒で武功をあげた。康高の第一の功績は遠江国高天神城攻略の軍功である。同城は遠州における武田氏の拠点で、康高は天正二年から落城するまでの八年間、周辺の山地に砦を築いて城兵と戦ったのである。この功績により横須賀城を与えられ、遠江国城飼郡を領した。康高の兵力は、十人余の与力と浪人衆であった。天正十七年に康高は死去している。 嫡子忠政は関東入国後旧領の横須賀をあらためて、上総国久留里城三万石を領した。関ヶ原の合戦後、本領に戻され五万五千石を与えられた。忠政の子忠次が榊原家を相続したため、大須賀氏は廃絶となってしまった。 ■参考略系図 |