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押田氏
九 曜*
(清和源氏義家流/桓武平氏千葉氏流)
*旗本押田家は「丸の内に九曜」を使用。


 千葉一族とされているが、その遠祖は八幡太郎源義家の六男義隆である。義隆は義家の子の中ではもっとも長生きし、源氏の長老として崇められていた。平治の乱(1159年)のときには、高齢の身に鎧を着込んで源義朝に従って戦った。しかし義朝はあえなく敗戦し、近江から美濃へと落ちていく途中、義隆は落ち武者狩りの集団との戦闘の中で、首筋に矢をうけて死んだ。

義隆流森氏のこと

 義隆の子頼隆は乳母に連れられて千葉氏を頼った。その後、頼隆は常胤のもとで成長し、やがて頼朝と面会することになる。『吾妻鏡』治承四年九月十七日条によれば、千葉常胤は下総国府において頼朝と対面したが、このとき、息子たちとともに一人の若者を連れていた。常胤が「これなるは陸奥六郎義隆殿の遺児、森冠者頼隆と申す者でございます」と紹介すると頼朝は「あの陸奥殿の子息か。我もそなたもともに源氏の胤子じゃ。ともに平家を倒し先祖の願望を達そうぞ」と、頼隆を常胤の上座に座らせたという。
 こののち頼隆は「毛利(森)冠者」と呼ばれ、従五位下・伊豆守に叙せられた。その後も頼朝の信任厚く、養和元年(1181)六月、頼朝が三浦に納涼のために出かけたときには護衛として同行した。また、建久元年(1190)十月の上洛に際しては後陣の随兵として付き従った。そして頼朝の死後、出家して蔵人入道西阿と号した。
 その後、北条義時の武家政治に反発した後鳥羽上皇は、承久三年(1221)に「承久の乱」を引き起こしたが、この乱に際して頼隆は幕府方大将のうちの一人・千葉介胤綱に従って上洛し、鵜沼の渡の大将となった。承久の乱が収束した後、北条義時は執権として国政を見ることになったが、万事を森西阿入道(頼隆)に相談したという。
 しかし、時代は執権・北条氏による専制政治となり、幕府創設に尽力してきた有力御家人と北条氏との確執が表面化し、草創以来の有力御家人が北条氏の手によって滅ぼされていった。そして、最後までその地位を保っていた三浦氏が、北条氏に真っ向から対立し、ついに宝治元年(1247)五月、北条氏と合戦に及ぶこととなった。三浦泰村は一族を鎌倉の館に招集した。しかし、時頼の弟・時定を大将とした北条軍に館を襲われ、泰村らは法華堂に立てこもり、堂内で一族郎党五百余人とともに自刃して果てた。この事件を「宝治合戦」と呼ぶ。頼隆は泰村の妹を妻としていた関係で三浦館に駆け入っていったが、ついに敗れて三浦一族とともに息子四人とともに自害した。
 頼隆の長男若槻太郎頼胤と弟頼定の兄弟は下総の千葉氏のもとにあったことから、三浦合戦の被害には遭わなかった。そして、頼胤は下総守を称して千葉氏に仕え、弟の頼定は伊豆守を称して森氏の祖となった。頼定の子孫からは織田信長に仕えた森蘭丸が有名で、蘭丸の弟の森忠政が徳川幕府下の近世大名として続いた。一方、頼胤の子は頼広といい、千葉氏の庇護を受け、子孫は千葉氏の側近としての地位にあったようだ。

八日市場城主の押田氏

 戦国時代、匝瑳郡八日市場城主の押田氏が知られる。天文十六年(1547)に押田伊勢入道が見えるが、その系譜は明確ではない。先の頼広の子孫かとも思われるが、それを裏付ける史料はない。押田氏が匝瑳地方に入ってきたのは、匝瑳氏の最後の当主と思われる福岡城主の匝瑳忠胤が亡くなったあとのことと思われる。それ以前の応永二十年(1413)には押田治郎左衛門常重の名のある寺領寄進状があり、応永期にはこの地方に押田氏がいたことが知られる。
 応永年間以降、千葉介胤直に仕えた押田某、千葉介胤将に仕えた押田将監、千葉介孝胤に仕えた押田掃部助、千葉介勝胤に仕えた押田兵部少輔などの名が見える。しかし、系譜上の位置付けはいずれも詳らかではない。
 押田近江守輔吉は千葉介輔胤に仕え、彼の偏諱をうけて「輔吉」を名乗ったものだろう。彼は輔胤の娘を妻に迎えて一門扱いとされ、九曜紋の使用を許されている。さらにその子・教友(近江守)は千葉介輔胤の外孫にあたり、千葉介孝胤・勝胤・昌胤の三代に仕えた。教友の妹は千葉介勝胤の家老・鏑木胤永(白井備中守)に嫁ぎ、一門としてますますその勢力を広げた。その子・吉持は勝胤・昌胤の二代に仕え、父に先立って天文元年(1532)十月、武蔵国において北条氏康の軍と戦って戦死している。
 吉持の子近江守昌定は、祖父の跡を継いで昌胤・利胤・親胤・胤富の四代に仕えた。天文七年(1538)十月の国府台の合戦では千葉介昌胤に従い軍功を挙げ、天文十六年(1547)七月の佐竹義昭との戦いでも奮戦している。天文二十五年(1556)銘の宮本熊野神社の棟札に「大檀那押田近江守常定」とみえるが、昌定のことか。
 その子下野守胤定は、八日市場と横須賀の城主であったようだ。千葉介胤富・良胤・邦胤・重胤に仕え、天正十七年(1589)、北条氏直の常陸戦線に参加した。その翌年の豊臣秀吉による小田原の陣では、千葉介重胤に従って小田原湯本口の守備についた。小田原落城後、胤定は領地のあった野手村に蟄居した。これ以前、急速に勢力を増してきていた、上総坂田城主の井田胤徳との結びつきを深め、胤徳の娘を嫡男・吉正に迎えている。吉正は子の豊勝とともに徳川家に召し出され、大坂両陣にも参戦した。そして、吉正は大番頭となり五百石を賜る旗本となった。また、豊勝は秀忠の小姓となり下総国海上郡内に四百石を給された。

参考資料:千葉氏の一族から】



■参考略系図
 


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