常陸国久慈郡小野崎から起こった。『尊卑分脈』や『小野崎系図』などによれば、鎮守府将軍藤原秀郷の三世の孫公通の子通延のとき、常陸国太田郡に住して太田大夫を称したとある。 通延の子通成は源義光の常陸入部により佐都郡佐都に退いたが、その子通盛は佐都荘小野崎に館を構えて土着し、はじめて小野崎氏を名乗った。通盛の子盛通・通頼らも佐都荘内根本・赤須に居住し、小野崎氏は黒川流域を本拠としてその勢力を扶植した。やがて、佐竹氏が太田城にあって次第に強大となり、通盛の子通長はついに佐竹昌義に名簿を提出して従属した。 南北朝期の当主通胤は足利氏に属して活躍した佐竹氏に従って各地を転戦、貞和四年(1348)通胤は本拠を佐竹氏に譲り多可郡友部に移り城を櫛形に築いたが、さらに、応安三年(1370)嫡子通春は多可郡山尾に築城して移り姓を山尾と改めている。通胤には三人の男子があり、山尾城を築いた通春が小野崎氏惣領となり山尾小野崎氏を称し、二男通房は石神小野崎氏、三男通業は額田小野崎氏のそれぞれ祖となった。 佐竹氏の乱 十五世紀、佐竹氏は惣領家と有力一族である山入氏との間で抗争を繰り返した。「佐竹の乱」と呼ばれるもので、その抗争は百年間にわたって続いたのである。山入氏は南北朝の内乱の初めに足利氏に尽くしたことで宗家に拮抗するほどの勢力を築き、関東を鎌倉府が統治するようになっても親幕府派の立場をとっていた。上杉禅秀の乱にも禅秀に加担して鎌倉府と対立した。一方、宗家は鎌倉府に近い立場を示し、佐竹惣領家と山入氏とは相容れない関係になったのである。 山入氏と惣領家とが決定的な対立関係となったのは、佐竹宗家に関東管領上杉氏から義人が養子として入り家督を継いだことへの反発がきっかけとなった。山入氏には額田・長倉などの佐竹一族が加担し、佐竹氏を二分する抗争となったのである。義人は鎌倉府と管領上杉氏を後楯に一族の反乱に対処し、額田氏は義人の攻略によって滅亡し、山入氏も鉾先を収めた。額田氏が滅亡したあとの額田城に入ったのが通業の孫通重であった。以後、通重の流れは額田小野崎氏と呼ばれた。 佐竹義人(義仁)が死去すると嫡子の義俊が家督を継いだが、弟の実定が兄に対して兵をあげた。この佐竹氏の内訌に際して、小野崎氏は江戸氏らとともに実定に加担して義俊を太田城から追放することに一役かい、石神城の対岸にある滝河原の地を恩賞として与えられている。寛正六年(1465)実定が病死したことで、義俊は太田城に復帰することができた。このとき、小野崎氏は白方郷を与えられるとの約束で、義俊に帰属したが、白方郷は小野崎氏には与えられなかったようだ。 山入氏は佐竹宗家に一時鉾先を収めたものの、文明十七年(1485)、周辺豪族とともに佐竹宗家義治(義俊の子)への攻勢を強め、石神小野崎通綱は義治の身代わりとなって戦死した。その後、子の通老は父の功によって石神・川井郷を恩賞として与えられたという。山入氏の宗家に対する攻勢は続き、義治の死後宗家を継いだ義舜は山入義藤・氏義父子によって居城太田城を追われ、太田城には山入氏が入った。この間、山尾小野崎親通は佐竹領内の地二十余ケ所を押領して勢力を伸ばしている。 佐竹氏の重臣に列す 佐竹氏の内乱に対して、隣国の岩城氏が仲介を図り、その結果小野崎・江戸氏は山入氏と袂を分かつことになった。以後、小野崎氏は佐竹氏の旗下に属し義舜が氏義と和睦したときも、和睦が破れて氏義を攻撃して太田城を奪回したときにも義舜を江戸氏とともに支援した。こうして永正元年(1504)山入氏は滅亡し、百年にわたった佐竹氏の内乱は終熄した。文亀三年(1503)一月、親通は一族で那珂郡石神に拠る小野崎通老の子通長の元服に際し名付け親となっている。また、永正十四年(1517)二月の佐都神社奉加帳には義舜以下の佐竹一族につづき小野崎一族の筆頭に子の通戴とともにその名を記した、などの動向が知られている。 佐竹氏の乱が終熄したことで、山尾小野崎氏は佐竹氏の重臣として進退することになり、親通の死後、山城守通戴その子山城守成通は佐竹氏に属して活躍した。成通は佐竹義篤・義昭の二代に仕えたが、国人領主でもある小野崎氏の自立性はきわめて強かった。ところが成通は嗣子に恵まれなかったため、義篤の二男義昌を娘の婿としてむかえ家督を譲った。以後、小野崎氏と佐竹氏とは近い一族となり両家の一体化が強まった。しかし、それは小野崎氏の自立性を失うことでもあった。 成通の弟政通は又三郎と称し、のち美作守を称した。天文の頃、佐竹義篤からたびたび書状を送られ、兄成通への出陣要請を依頼されたり、義篤の下知に従う限り進退を保証されるなど佐竹氏との関係は深かった。 山尾小野崎宗家成通の跡を継いだ義昌は、永禄七年(1564)、常陸府中城の大掾慶幹が死去したあと、一時、大掾氏の名跡を継ぎ昌幹と名乗った。しかし、慶幹の一族の貞国を支持する大掾氏一族や家臣の反対を受けて太田城に帰った。そして、小野崎成通の娘婿となり、山尾小野崎氏の家督を継いだ。この時、名を義昌と改め、山尾小野崎氏代々の受領名である山城守を称した。 以降、佐竹義重を援けて各地を転戦し陸奥にも出陣したが、天正十三年(1585)または同十七年に戦死したと伝えられている。義昌の跡目は、佐竹一族・東義久の二男源三郎宣政が継いだ。関ヶ原の合戦後、佐竹義宣が秋田移封の憂き目となったとき、小野崎氏も行動をともにして秋田に移住し佐竹氏重臣として近世に続いた。 小野崎氏庶流 小野崎氏は、山尾流を宗家に、額田、石神の有力庶子家があった。 額田小野崎氏は、通胤の子通業の孫隼人正通重が那珂郡額田城に拠ったことに始まる。小野崎氏の有力一族として、佐竹氏の旗下に属しながらも自立性が高く、たびたび佐竹氏に反抗を繰り返してきた。戦国期の当主は従通で彦三郎を称し、のち下野守となった。従通の名の初見は、天正九年(1581)十二月、家臣の富岡孫太郎に一字を与え、通茂を名乗らせたときである。 同十六〜十七年に、江戸氏の内紛である「神生の乱」が起きた時、その張本人の神生右衛門大夫を援け、佐竹義宣の支援を受けた江戸重通と戦った。この時、佐竹氏と対立していた伊達政宗は、自分に味方すれば従通に江戸一跡を与えようと誘いをかけている。しかし、同十七年五月、重通・従通間の和が成り、従通はふたたび佐竹氏の旗下に属し、翌年五月の佐竹氏の小田原参陣に際して、義宣に従い秀吉に謁した。その翌年、豊臣政権を背景とした義宣が、領国統一のために額田城に攻撃をかけたため、従通はたまらず伊達政宗を頼って落ちていった。 石神小野崎氏は、初代櫛形城主通胤の子通業を祖とする。通房の後裔通老は越前守を称し、延徳元年(1489)、岩城氏との合戦において父通綱が死を賭して佐竹義治を援けた功により、義治から石神・河合の地を与えられ、やがて石神城に拠り石神小野崎氏を称した。以後、義治・義舜に属し、小野崎三家の中ではもっとも佐竹氏の信頼を得て、その軍事力の一翼を担った。永正の頃、古河公方足利政氏から、佐竹義舜に属して忠節を尽すよう申し渡されている。永正十四年二月の佐都神社奉加帳には、子の通長とともにその名を見せている。 通長は三郎を称し、のち大蔵大輔となった。山尾小野崎親通を烏帽子親とし、佐竹義舜の旗下に従った。永正のころ、古河公方足利高基から、江戸通泰と相談して忠節を尽くせと命じられている。また、通泰からは友好を保とうという書状を受けている。天文三年(1534)には、佐竹義篤から起請文をおくられ、無二に奉公する限り無沙汰なし、と約束されている。通長の子は通隆で越前守を称した。佐竹義昭の旗下に従い、永禄六年(1563)、義昭から出陣を要請されており、これより先には、義昭出陣中の太田城の在番を依頼されている。この間、義昭に鮭を送って礼を述べられるなど、自立性を保ちながらも佐竹氏に忠実に従った。 【参考資料:茨城大百科事典/戦国大名家臣団事典 など】
■参考略系図 |