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奥田氏
亀甲の内花菱/丸に二つ引両
(清和源氏足利氏流斯波氏支流)


 鎌倉末期から建武の新政、南北朝時代の初めにかけての中世動乱の時代。足利尊氏に従って軍功を挙げ、越前で南朝方の領袖新田義貞を滅ぼし、越前守護を始め、若狭・加賀・越中・氏なの守護を歴任したのが斯波高経であった。
 斯波氏は足利氏の庶流で、足利泰氏の長男家氏から始まった。さきの高経の活躍によって、長子家長は奥州探題、二子氏経は九州探題、三子氏頼は若狭守護に補任されるとともに、康永四年(1345)八月の天龍寺供養には、尊氏・直義の後陣随兵の先頭を務めた。四子の義将は幕府執事となり、父高経とともに将軍義詮を補佐して政務を執行したのであった。この斯波氏隆盛のなかで、五子義種、と孫の義高(氏経の子)も幕府の要職に登用された。
 奥田氏はこの斯波氏の一族であった。すなわち、斯波義種の孫氏種が、足利義満のころ尾張国中島郡奥田城の城主となり、地名に拠って斯波氏から奥田氏に改めたのが始まりとされる。以後、連綿し戦国期の忠高に至る。

乱世を生き抜く

 忠高は主税助、八郎右衛門、三河守などと称し、松永弾正久秀に属して、しばしば戦功をあげた。久秀没落後は、織田信長に属し、信長死後は豊臣秀吉に仕えた。のち致仕して、大和国高畑に寓居した。慶長五年(1600)関ヶ原の役ののち、忠高の武名を家康が聞きおよび、山岡道阿弥をもって召し出され、大津において家康に拝謁。大和国山辺、紀伊国名草郡の内において、二千八百石を賜った。翌六年八十歳にて死去した。
 忠高の嫡子彦三郎某は、父に先だって戦死していたこともあり、その跡は四男忠次が相続した。家康に仕えて、慶長十九年(1614)大坂の陣には、松倉重政・本多利長らと大和口より進み黒門口に陣した。
 元和元年の陣には、下知を奉じて興福寺の浄明院にあった。このとき、大坂方の大野治長の手下が大和口に出張し、筒井氏が守る郡山城に放火し、既に南都を焼かんとする風聞に、家臣を斥候に出したところ、果たして相違ないことと知れて、松倉勢とともに郡山に向かった。
 大坂方は兵の集まるのをみて、夜陰にまぎれて立ち退いていった。家康は、忠次・松倉の働きに対して、寡勢をもってよく大坂方の攻撃を防いだことまことに奇特であると、本多正純をもって言葉を下している。そして忠次・松倉重政は、さらに大和国竹内の御蔵を大坂方より守るよう命を蒙った。しかし、関東の大軍が大坂城に迫ったときに、大坂方が大和の御蔵に迫るとも思えず、しかも、先手にありながら空しく御蔵の守りにつくこと本意ではないとして、五月五日、河内の国府に出張し、水野勝成の手に従い城攻めの軍に加わった。
 五月六日、大坂方の後藤又兵衛・薄田隼人正らの軍が攻め寄せてきた。忠次と松倉重政はこの敵に当たり、真っ先に駆け出した。このとき、桑山貞晴は、敵の多勢であることをみて、水野の本軍を待って攻撃すべきと言ったが、忠次は諸軍の集まるのを待てばいたずらに時を移すのみとして、後藤・薄田らが陣を布く片山に駆け登って行った。そして、長身の槍をもって敵陣で奮戦したが衆寡敵せず、ついに討死した。四十二歳の働き盛りであった。
 子の忠一は、父討死のとき駿府にあった。大坂城が落ち、豊臣氏が滅亡したあと、二条城に召されて、父忠次の遺領を賜り、大和国の采地に住した。以後、子孫は徳川旗本として家名を伝えることになった。

もう一つの奥田氏

 ところで、奥田氏の一族で、堀秀政に仕えて、大名になった家がある。奥田氏種の子氏秀の後裔に直純が出て、堀利房の娘婿となった。直純の子直政は堀氏の家老となり、奥田を堀に改めた。その子直寄は「勇邁方正」と評されその力量は出色の存在であった。しかし、それが主家堀氏に災いしたのである。
 すなわち、直寄には嫡出の兄直清があった。力量衆が認める存在でありながら、庶出のゆえに堀氏宗家の家督を継げなかった。さらに兄直清は宗家として、幼主忠俊を独占して権勢を専らにしていた。やがて直清に擁せられた忠俊の施政に対して批判の声が高まってきた。ここに至って、「これでは堀家の将来が危ない」と、直寄は悩んだ。そして、直清との対立は深まっていき、直清は幼主忠俊に直寄の悪口を吹き込み、忠俊に嫌悪されていることを感じた直寄は堀家を退散したのであった。
 直寄は駿府の家康に、直清の奸悪非政の条々を訴え出た。そして、直清と直寄が家康の前で対決することになり、直清は敗れて出羽に配流され、主家堀家も「大国に封ずる器に非ず」として領地三十万石は収公処分となった。その後、直寄は主家の没落を横目に十万石の大名にまでのし上がった。しかし、直寄死後、跡を継いだ直定が早世し所領収公され、結局断絶の憂き目となった。その後、直寄の次男直時に対して、越後村松のほかに三万石を賜り、子孫封を継いで明治維新に至った。


■参考略系図

Ver.1 系図


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