大河戸氏は秀郷流藤原氏で、武蔵国大河戸御厨を本領としていた。大河戸氏の祖である重行(行方)は、治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に際して平氏方についたため、伊豆国に流され、大河戸御厨は関東御領となった。重行の子広行・秀行・行元・行平らは三浦氏の庇護を受け、養和元年(1181)に源頼朝の御家人となり、文治五年(1189)の奥州征伐には大手軍に属して参加した。大河戸氏はこのときの戦功に対する恩賞として、陸奥国宮城郡山村の地頭職を獲得した。 以後、子孫は南北朝時代まで大河戸を名乗っており、建武元年(1334)の文書に大河戸隆行は、山村を「先祖行元より六代相伝の地」と記しており、山村の地頭となったのは大河戸行元(基)であったことが知られる。やがて、大河戸氏は本領のある武蔵国から山村の朴沢に移り住んだが、それをきっかけとして朴沢を称するようになったようだ。 鎌倉時代の大河戸氏は本領の武蔵国に住んでいたようで、山村は代官支配を行っていたものと思われる。そして、高柳をも名乗り、大河戸高柳忠行は、山村を分割して、嫡子行泰、庶子の行政・忠泰・行空・宗信らに相続させたが、それぞれの管理は代官が行い、惣領行泰の指揮下に置かれていたと考えられる。 大河戸氏は、山村のほかに武蔵国・伊予国などに所領を持ち、遠隔地の所領は代官を通じて行い、庶子に対しての分割相続がなされていた。つまり、惣領制であり本家の長である惣領が責任者となって、分家である庶子に年貢や軍役などの諸負担を割り当てるというのが原則であった。 しかし、鎌倉時代後期になると、各地で惣領と庶子との間で所領紛争が多くみられるようになった。それは大河戸氏も例外ではなく、惣領行泰と庶子忠泰との土地の境界をめぐる紛争や、惣領行泰が庶子宗信の所領を奪うといった紛争が、鎌倉幕府の法廷で争われた。そして、これらの紛争に対して幕府は次第に適切な解決を示すことができなくなり、それが、後醍醐天皇の討幕運動へと発展していったのである。 南北朝から戦国時代へ 元弘三年(1333)五月、鎌倉幕府が滅亡した。「元弘の争乱」に際して、大河戸氏は護良親王の令旨を奉じて京都に出陣して軍忠を抽んじ、その代官は新田義貞に従って鎌倉攻めに戦功をたてた。かくして、建武新政がなったが、新政は三年たらずで瓦解し、南北朝争乱の時代となった。 大河戸氏は南朝方に加担して、山村宮(正平親王)を擁して活躍した。正平六年(1351)、奥州の南朝方は「観応の擾乱」につけ込み北畠顕信は宇津峯宮を奉じて、北朝方を攻略して多賀国府に入った。さらに、宇津峯宮は山村宮、伊達宗遠、田村庄司一族らをもって北朝方を攻略した。しかし、翌年になると北朝方は勢力を盛りかえし、国府を攻撃してきた。 山村宮は大河戸一族とともに国府救援のため出撃し、北朝方と戦ったが奮戦の末に戦死した。国府は北朝方に攻略され、宇津峯宮らは宇津峯城に逃れたが、翌年、吉良貞家は大軍を率いて宇津峯城を攻撃した。ついに宇津峯城は陥落し、北畠顕信らは宇津峯宮を奉じて出羽に逃れ去った。山村宮の戦死後も大河戸一族は市名坂城、小曾沼城を死守したが圧倒的な北朝軍に攻略され、さらに本拠山村城も陥落した。 以後の大河戸氏の事蹟については、不明な部分も多いが、山村・朴沢・信楽沢・高柳などを名乗り、中世においては朴沢氏が宮城郡の土豪と縁を結び、根白石・七北田方面にいたことが知られる。そして、国分氏に仕え、さらに伊達氏に仕えた。「安永風土記御用書出」に、朴沢村古館二つ、本要谷古城国分家臣朴沢蔵人が城主であり、のちに要谷新城に移ったとある。また、「伊達世臣家譜」には、大番士三百十石の朴沢氏がみえ、朴沢氏の中でもっとも出世した家として知られる。 【参考資料:泉市誌・仙台市史 など】 ■参考略系図 |