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備中大森氏
庵の内一つ柏
(吉備津彦神社祠官)


 大森(のちに大守に改姓)氏は吉備津彦神社の祠官で、系図によれば、その祖は吉備津彦神社の祭神である弟彦命となっているが、大守家の系譜については、さきの吉備津彦命につながる三野臣の後裔とするもの、田使姓難波氏の一族、さらに藤原支流など諸説があるようだ。いずれにしても古くから吉備津彦神社に奉仕していたことは間違いない。
 大森氏は早い時期から武士化していたようで、建久年中(1190〜98)の当主大藤内(王藤内)隆盛は、平家の家人妹尾太郎兼康に味方したという疑いで源頼朝に捕らえられて鎌倉に拘禁されたが、工藤祐経によって無罪が証明され、大藤内は本領を安堵されている。大守家では、この大藤内が中興の主ということになっている。
 南北朝期、大森氏は武家方に与した。足利尊氏が宮方の軍勢に攻められて、近江に退却した時には、大森彌八重直が播磨まで兵を率いて出陣し、足利軍に加勢していることが知られる。翌年、それらの功に対して尊氏からもらった感状が大守家に伝えられている。
 応仁の乱では、大森藤兵衛尉隆行が山名軍に属し、備後方面まで遠征した。その忠勤に応じ、文明六年(1475)、将軍足利義政から、執事の布施下野守、松田丹後守を通じて感状を与えられている。 天文二年(1533)、備前の守護赤松氏は被官である浦上村宗を通じて、大森隆行に備前国中の祭祀をきちんと行うように命じている。そして、隆行の長男隆基がその責任者となった。
 永禄五年(1562)、日蓮宗に帰依していた松田左近將監元賢は、吉備津彦神社を法華勧請にしようとしたが、隆基はこれを拒否。怒った元賢は兵を率いて攻め寄せ、社殿に火を放って居城金川に戻ろうとた。隆基は松田勢を途中で待ち伏せし、元賢を見事、討ちとっている。
 隆基の子幸秋もよく社務を行い、備中成羽城主三村越前守親成、小早川隆景、安国寺恵瓊などのために祈祷を行い、それぞれ感状をもらっている。天正三年(1579)、備中勢が辛川に押し寄せたときには、子の助七郎隆久が宇喜多家に味方して奮戦。同十一年、秀吉の高松城攻めに際しては秀吉のために戦勝祈願を行った。 文禄三年には宇喜多秀家から、新しく開墾された窪屋郡西荘の内で三十石が寄進され、隆久が社務職となった慶長二年には秀家の代官として、備前美作両国内に千四百五十石の知行を与えられた。その後も、宇喜多家から四百石の社領を寄進されている。
 関ヶ原の戦の後、西軍に与して没落した宇喜多家に代わって備前に入国した小早川秀秋からも、三百石の社領を安堵され、世継ぎがなくて断絶した小早川家に代わって池田輝政が備前藩主として入部してくると、隆久は、輝政が派遣した家老荒尾平左衛門を迎えて国内を案内し、国内の地図製作の手伝いもしている。以後、池田氏から篤い信仰を受け、代々社務職を務めた。



■参考略系図 ・「古代氏族系譜集成」所収系図から


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