高天神小笠原氏は、信濃守護小笠原氏の一族である。信州深志城主小笠原修理大夫貞朝の長子であった長高は、父貞朝が異腹の弟にあたる長棟を寵愛したことから、父子の間に不和が生じ、長高は深志を立ち退いて尾張国に出奔したという。 尾張に赴いた長高は、織田氏を頼ったが、「親と不和となる子を我が手に属すること叶うべからず」と織田家には受け入れられなかった。しかし、尾張領内に居住することは許されて、知多の名和という在所に居を構えた。その後、父貞朝の死去を聞いて、家督を襲わんと、家来を引き連れて深志に帰ったが、既に弟の長棟は城を固めていて、家督相続の件は叶わなかった。 このとき長高の老臣某が、兄弟で争うことの否を説いたことから、三河国の幡豆の領主吉良氏を頼って、三河国へ入って、吉良氏に属した。その後、駿河守護である今川氏を頼って、結局、長高は今川氏に仕えることになった。そして、馬伏塚城を預けられて、深志に帰ることはなく、同城で病死したと伝える。 乱世を生きる 長高の跡は長子春儀が継いだ。今川氏の家臣であり高天神城を守る福島氏に、謀叛の聞こえがあることを聞いた今川氏は春儀を高天神城に遣わし、その実否を探らせた。春儀は高天神城の三の丸に入り、福島氏の動向に気を配っていたところ、果たせるかな、福島氏に謀叛の色が見えた。春儀は時を移さず、本丸に押し掛け、福島氏を討ち取った。この功により、福島氏に替わって高天神城を預けられ、以後、高天神城主をつとめた。 その後、永禄三年(1560)五月、駿河大守であった今川義元が尾張の桶狭間で織田信長の奇襲を受け、討ち死してしまった。義元の死後、子の氏真が継いだが、家を支えることができず今川氏は衰亡の一途を辿ることとなる。 永禄十一年、氏興は今川氏真を見限り、一族の小笠原与右衛門を徳川家康のもとに遣わし、遠江への道案内をさせた。この頃、今川氏真は掛川城に籠っていたが、家康は西宿より城に押し寄せ、氏興は東口天王山より攻め寄せた。氏真は叶わずに和を乞い、城を家康に明け渡して、小田原北条氏を頼って落ちていった。ここに、戦国大名今川氏は没落したのであった。 その後、氏興は徳川家康に属して、元亀元年六月、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った姉川の合戦にも出陣、また、所々の合戦において功を挙げ、馬伏塚城で病死した。 氏興の嫡子氏儀も家康に属して高天神城主をつとめた。元亀二年、甲斐の武田信玄が高天神へ押し寄せ、ハタカヤ口ホツチカノ山に陣を布いた。一方、武田勝頼は茶臼山に陣を布いて、両手より千騎の軍勢が高天神城に攻めかかってきた。 しかし、高天神城勢は攻撃をよく防ぎ、時には、城内より打って出て武田勢に一矢を報いるほどであった。高天神城の旺盛な戦意を見て、信玄は陣を払って甲斐国へ兵を引き揚げていった。 高天神小笠原氏の終焉 天正二年(1574)、武田勝頼が再び高天神城に押し寄せてきた。このとき、氏儀(長忠)は浜松へ事の急を告げ、徳川家康、織田信長に援軍を求めたが、援軍はついに来なかった。そして、武田氏に降れば信濃国を与える、という勝頼からの降伏勧告が出された。氏儀はこの勧告を受けようとしたが、安西越前、福島十郎左衛門らは同心したものの、浜松に人質を出している者たちはそれに反対した、ここに城内は降伏、籠城の二派に分かれ同仕打ちにまで至った。 しかし、勝頼より、城を明け渡せば浜松まで送り届ける旨が申しだされたことから、ついに、氏儀は高天神城を武田氏に明け渡した。この時、安西越前、福島十郎左衛門の二人は、氏儀の罪を蒙って切腹して果てた。氏儀は富士の下方に退いたが、やがて病を得て死去したという。 また、別説によれば、高天神城を開城したのち、氏儀は武田氏に属して興国城を賜り、勝頼麾下の将として各地の合戦に参加した。ところが、桶狭間の合戦で武田軍が敗れ、武田氏が衰退をはじめ、ついには織田信長によって滅亡させられた。このとき、氏儀は北条方に心を通わせて、武田氏と袂を分かち、以後北条氏に属した。しかし、秀吉の小田原征伐によって北条氏が没落しったとき、家康方の兵によって氏儀は討たれたともいう。ここに、高天神小笠原氏の嫡流は断絶した。長高が深志から移住して、わずか、四代の歴史であった。 ところで、氏儀の弟に長治がいたという。長治は新陰流を学び、のち源信斎を称した人物である。かれは、小笠原氏没落後、奥山休賀斎のもとに弟子となり、その剣技に磨きをかけ、ついには休賀斎の道統を継ぐまでになった。のちに源信斎は江戸に道場を開いたが、かれの剣技を慕って入門する者三千人を数えたと古記に記されている。 【参考資料:群書類従所収「高天神小笠原家譜」より】 ■参考略系図 |