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宮城氏
揚羽蝶
(大江氏流)


 宮城氏は『寛政重修諸家譜』によれば「大江兵部大丞千里が男維明が後裔某、陸奥国宮城に住せしより宮城を名乗る」とあり、大江氏の後裔とされている。そして「宮城四郎某のとき源頼朝に仕え、子孫代々鎌倉将軍家に仕えた。のち足利尊氏に属せしより以来、累代近江国に住し足利将軍家に仕えた。系図を失うがゆえに、山城守某までその世系詳らかならず」という。
 一方、『諸家系図』に宮城氏系図があり、累代の名前、官途、簡単な事績が記されている。しかし、その記述はそのままに受け取ることはできないものであり、系図は重甫の代から信を帯びてくるようだ。重甫は織田信長に擁されて上洛してきた義昭に仕え、信長が三好攻めで摂津に出陣するとその軍に加わり、以後、信長に仕えるようになったらしい。

歴史への登場

 宮城氏が明確に歴史に登場するのは、重甫の子右兵衛尉堅甫の代で、堅甫は父同様に信長に仕えた。しかし、天正十年(1582)、本能寺の変で信長が横死、その後、羽柴秀吉が天下人として台頭してくると秀吉に仕えるようになった。天正十四年(1586)、秀吉の九州出陣に先駆けて、黒田孝高・安国寺恵瓊らとともに九州へ出張し、秀吉の島津討伐の予定を九州諸将に伝える任務をつとめた。堅甫は山城花園に所領があったようで、六角氏奉行人の宮木賢祐と混同されるが、別人物であったと考えられている。
 堅甫には嫡男正重、次男文利がいたが、娘婿の豊盛が有名である。豊盛も秀吉に仕えて、播州三木城の攻防戦で手柄を立て、小田原攻めや朝鮮出兵にも出陣した。文禄三年(1594)、豊後日田・玖珠二万石の蔵入地代官として赴任、筑後川上流にあたる三隈川を臨む日隈山(亀翁山)に日隈城を築城している。慶長三年(1598)、豊臣秀吉が没したのち、五大老、五奉行によって挑戦撤退が決議された。豊盛は五大老筆頭の徳川家康の命を受け、徳永寿昌、家康家臣の山本重成らとともに朝鮮に渡海して在鮮諸将へ撤兵を指示する任にあたった。
 金戒光明寺の子院永運院の襖絵修理のとき、下張りから発見された「永運院文書」は宮城豊盛に関わる文書が多く含まれている。京都黒谷の金戒光明寺の本堂再建の時に奉行となった縁から同寺に伝わったものと思われ、豊臣秀吉が天下人に駆け上った天正十年から文禄五年までのものに集中している。豊盛が片桐且元・黒田長政・小西行長などに宛てた書状、豊後の国で行った検地関係の書類、島津攻めに用いられた兵糧に関する書類など豊臣政権史の一端を語る貴重な文書群である。
 また、江戸時代に入った元和元年(1615)、豊盛は足利義政が建立した銀閣寺(慈照寺)庭園の改修も手がけている。戦国時代、争乱のなかで荒れるにまかされた銀閣寺は東求堂が残るばかりの有様となっていた。一大檀越になった豊盛は方丈を建築、庭園の整備や持仏堂・観音殿の修理を手がけ、いまに伝わる銀閣寺の再建がなったのであった。
 男子のなかった豊盛は山崎片家の男子頼久を養子に迎えたが、山崎氏は近江出身であり宮城氏と山崎氏とは近江で繋がっているようにも思われる。実際、栗東市大橋には宮城豊盛の居館跡という宮城氏館が伝わっている。頼久は豊盛と同様に秀吉に仕え、天正十五年(1587)に行われた北野大茶会では前田玄以とともに奉行を務めている。宮城氏の場合、堅甫といい、豊盛、頼久といい、武将というよりは文官としてのイメージが強い。真偽はともかくとして、学者の家として名をなした大江氏の流れを感じさせるところではある。

宮城氏の有為転変

 慶長五年(1600)、関が原の合戦が起こると、豊盛は大坂城にあって西軍に属して平野橋の守備に当たった。 戦後、所領を没収されたが、養子頼久とともに家康に仕えた。慶長十年(1605)、頼久は兄の山崎家盛から但馬国二方郡六千余石を 与えられ芦屋陣屋を構えた。ところが、それから四年後、頼久は養父豊盛に先立って病死、わずか五歳の十二郎が跡継ぎとして残された。 十二郎の後見として豊盛が所領の支配を行い、大坂の役が起こると冬・夏の両陣ともに参陣した。その後、豊盛は駿府で家康に仕え、 家康が死去したのちは江戸に出て秀忠の御伽衆となった。
 元和六年(1620)、豊盛が亡くなると十二郎が家督となり、主膳正豊嗣を名乗った。寛永四年(1627)加増を受け、 浜坂一万三千石を領する大名になった。寛永十六年、豊嗣は祖父豊盛が再建した銀閣寺の修理を手がけ、方丈、玄関、庫裡、門を整備し、 銀閣、東求堂の修復を行った。豊嗣は江戸にあって所領の支配は家臣を代官として赴任させ、領内の検地や村落の自立を図り、 また清富村の町立てや岸田川の付け替え工事を行った。とくに、奉楞巌寺古文書の保護をした功績は大きく評価されている。 代官を勤めた奥村・西川氏などの家臣は 近江出身の者がの多かったようで、ここでも宮城氏と近江との関係がうかがわれる。
 かくして小さいながら大名に列なった宮城氏であったが、寛永二十年(1643)、豊嗣が嗣子のないまま病死したことで断絶、除封となった。まことに短い歴史ではあるものの、銀閣寺再建、永運院文書など宮城氏が歴史に残した足跡は小さくはないといえよう。豊嗣の死で嫡流は途絶えたが、一族の宮城正重が家康の命により池田輝政に属したといい、尾張徳川氏に仕えたものもいるという。余談ながら、『諸家系図』に収録された「宮城氏系図」はその奥書によれば、寛永十八年、寛永諸系譜編纂の奉行太田備中守に豊嗣が差し出したものとある。そこに書かれた家紋は大江氏流の代表紋である「一文字に三つ星」ではなく「揚羽蝶」である。家紋の由来が語られていないのは、なんとも残念なことだ。

【主な参考文献:寛政重修諸家譜・宮城系図・戦国大名370出自事典 など】


■参考略系図
・「諸家系図」に収録された宮城氏系図をベースとして、「寛政重修諸家譜」の宮城氏系図などを併せて作成。
 

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