斯波氏は清和源氏足利氏の一族で、足利泰氏の長男家氏を祖とする。家氏は陸奥国斯波郡の所領を譲られ、高水寺城に拠って斯波を称したことが斯波氏の始まりと伝えられている。しかし、家氏みずからが奥州斯波郡に下向したとは考えられず、おそらく斯波郡の領地は代官をもって支配していたものと思われる。 家氏は北条氏の出生であったが、のちに泰氏が北条得宗家の女との間にもうけた頼氏が足利氏の家督を継いだため、長男でありながら庶子家の立場に甘んじた。しかし、足利氏宗家は当主の早世が続き、家氏は足利氏を代表する立場となり、関東御家人として斯波氏の基礎を築いたのである。家氏が尾張守に任ぜられたことから尾張家とも呼ばれ、鎌倉時代には足利を名字としていた。 家氏のあとを継いだ宗家は、陸奥の斯波郡と下総の大崎荘とを相続して、斯波氏とも大崎とも称した。宗家のあとは宗氏ついで高経と続き、高経のとき元弘の乱(1331〜34)に遭遇した。高経は足利尊氏に従って活躍、建武元年(1334)、越前守護職に補任された。南北朝期には尊氏の股肱として、越前を中心に北陸の経営にあたり、新田義貞の討伐などで功績をあげた 。 奥州斯波氏の登場 鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が発足すると、後醍醐天皇は陸奥・出羽の鎮撫の任に義良親王を就かせ、北畠顕家を陸奥守に任じてその後見とした。それを南部氏・伊達氏・白河結城氏ら陸奥の諸将が支援するかたちで、新政権の奥羽両国の経営が開始された。ところが建武二年に「中先代の乱」が起こると、足利尊氏は後醍醐天皇の許しを得ないまま鎌倉に下り乱を鎮圧した。そして、そのまま鎌倉にとどまり、後醍醐天皇に対する叛意を公然と示すようになった。 天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を送ったが、尊氏はこれを箱根竹の下の合戦で破り、義貞を追撃して上洛、京都を制圧した。建武新政に叛旗を翻した尊氏は奥州に備えるため、鎌倉期より斯波郡に所領を有する足利斯波氏に着目、高経の嫡男家長を奥州総大将(探題)に任じて奥州に下した。斯波郡に下向した家長は、高水寺城に入ると北畠顕家と対峙した。以後、家長は奥州探題として相馬氏を味方にするなど、尊氏勢力の拡大に努めた。 京都を失った天皇は北畠顕家に上洛を命じ、建武二年十二月、顕家は足利尊氏追討のために多賀国府を進発し、鎌倉に向ったのである。これに対して斯波家長は顕家の西上を阻止せんとして相馬氏らとともに北畠軍を高野郡、行方郡で迎撃、しかし、阻止できないまま顕家軍を追撃して鎌倉に入った。 斯波家長らの追撃を振りきって京都に進攻した北畠軍は、足利尊氏軍を破り九州に追い落とした。翌三年四月、奥州に戻る顕家軍を鎌倉の片瀬河で迎撃した家長は、ここでも顕家軍を阻止することはできなかった。 九州に逃れた尊氏は態勢を立て直すと、上洛の軍を起こして摂津湊川で楠木正成を討ち取り、新田義貞を追ってふたたび京都を制圧した。後醍醐天皇は陸奥の北畠顕家に上洛を命じ、上洛軍を起こした顕家は奥州勢を率いて鎌倉を攻撃した。足利義詮の執事として鎌倉守備に任じる家長は、顕家軍の西上を阻止せんとした。しかし、三たび敗れて、義詮を鎌倉から脱出させると杉本の観音堂で自殺した。時に十七歳の若武者であったというが、その享年に関しては異説もある。 京を目指した顕家は美濃で尊氏勢の迎撃に遭い、伊勢・大和を転戦して、暦応元年(延元三年=1338)和泉国石津で高師直軍と戦い敗れて戦死した。顕家が戦死したあとは、弟の顕信が陸奥国司として奥州に下り、奥州の南朝勢力の挽回に努めた。 高水寺への定着 家長には詮経という子があったと系図に記され、この詮経が高水寺斯波氏の祖になったとされている。一方で、奥州斯波氏は高経の弟で奥州探題として下向した家兼の子孫が祖になったという説もあるが、家長の子孫が高水寺斯波氏になったとするべきであろう。 南北朝の対立はその後も続き、奥州では大巻館を拠点とする河村氏が南朝方として忠節を尽くしていた。高水寺城主となった斯波氏は、延文年間(1356〜60)のころより河村氏を次第に圧迫していった。そして、南北朝の合一がなったのちの応永三年(1396)、河村秀基は斯波氏に屈服してその家臣となった。かくして、高水寺斯波氏は斯波郡六十六郷を支配下におさめ、足利将軍家につながる名門奥州斯波氏の嫡流を称して栄え、「斯波(志和)御所」と称されるようになったのである。 とはいえ、室町時代における高水寺斯波氏の動向は必ずしも明確にうかがうことはできない。永享七年(1435)、和賀・稗貫郡に起こった争乱において斯波氏の名がみえている。すなわち、和賀氏の惣領小次郎と庶子家の煤孫氏との間で紛争が起こり、その調停に南部遠州が活躍した。遠州は『聞老遺事』によれば三戸南部義政とされていたが、最近の研究で八戸南部長安に修正されている。 その後も和賀一族の内紛は続き、つぎは庶流黒沢尻氏が稗貫氏をたのんで和賀小次郎を攻撃した。小次郎の支援要請によって南部長安が岩手郡に出陣、争乱の鎮圧にあたったという。しかし、このとき鎮圧軍の総大将であったのは斯波御所で、南部氏は斯波氏の指揮下にあって活躍したようだ。翌永享八年になると、斯波御所軍は稗貫氏の本城瀬川十八沢(さかりがさわ)城を攻撃した。やがて、奥州探題大崎氏、葛西氏らも参陣して、争乱は稗貫氏の敗北で終わったようだ。 この戦いに関して近世盛岡藩の記録などでは南部氏を主体として書かれているが、それは盛岡藩の潤色であり、当時は足利一門につらなる斯波氏が上位にあった。斯波氏は「志和御所」として尊敬を集めたが、応仁の乱を契機として足利政権が衰微していくとともに斯波氏も相対的に勢力を失っていった。その結果、郡内諸臣の信望をも失い、ついには三戸南部氏の攻勢にされるようになる。 奥州斯波氏-世系諸説 高水寺斯波氏が「志和御所」として斯波郡六十六郷に君臨したことは疑いないが、その家系、歴代の事蹟に関しては不明な部分が多い。 斯波氏の後裔を称する三郎兵衛行詮の覚書によれば、「家長より十代、私祖父兵部大輔詮森まで、高水寺之城主にて御座候」として、陸奥守家長より兵部大輔詮森まで十代としているが、その確証は得られない。また、『奥南落穂集』の斯波家の条には、「大崎左衛門佐教兼は、明応元年(1492)志和郡の地頭となり、その男左衛門尉詮高は、同四年下向、高水寺城に居住した」とある。大崎教兼は康正年中(1455〜56)の人であり、その男詮高を明応中(1492〜1500)の人としても違和感はない。「落穂集」は詮高の男として治部少輔経詮をあげ、『内史略』の志和御所累系でも治部大輔経詮とあり、天文年中(1532〜54)に岩手郡を侵略したのはこの経詮であるようだ。 一方、「斯波氏系図」には治部大輔経詮はみえず、詮森の祖父は詮房で父は詮元となっている。さらに「落穂集」では民部少輔詮真の男を孫三郎詮基とし、詮基はさらに詮直を改めたとあるがにわかに信じられない。紫波郡水分村の志和稲荷神社の棟札に「大旦那源朝臣志和孫三郎詮直、本領当国住」「天正十六年五月廿八日」等の記事があることから、天正十六年(1588)は詮直の時代であったとみて間違いないだろう。ちなみに、『奥州斯波系図』にみえる兵部大輔詮森は詮房の叔父となっている。 他方、『大萱生系図』では斯波家没落のときの当主を民部大輔詮元としている。そして、花巻の給士川村作内の慶安二年の親類書上に「親、川村周防、生国御当地、志和秋元より高五百石下され、奉公つかまつり、その後、御当地にて病死つかまつり候」とある志和秋元は斯波詮元と同一人物と思われ、斯波氏没落は詮元の時代であったと考えられる。 『群書類従』の「奥州斯波系図」は陸奥守家長より兵部大輔詮森までを十代につくり、前記の斯波行詮の覚書も十代と伝えている。しかし『南部根元記』の志和没落の条に「志和の家は、前陸奥守家長、始めて此所へ下り給いてより、当御所民部大輔まで七代、斯波の御家、此度亡び給いけり」として、七代説をとっている。そして、没落の際の御所を民部大輔とするのは「大萱生系図」に共通し、斯波系図の治部大輔詮元に充てられようか。さらに斯波氏没落に関し、『系胤譜考』大萱生氏、玄_頭秀重の譜の一節に、「斯波御所、民部大輔詮元 詮愛息男 昼夜酒淫に耽し、政事に倦み(中略)君臣不和となり、斯波家の武威、日々に衰微、諸士は隣境に心を寄せる(後略)」と、詮元の乱行が没落につながったと記している。 このように、高水寺斯波氏の系譜と最期に関しては諸説が伝えられ、歴代の事績も断片的に伝えられた史料からうかがうしかない状況となっている。 南部氏との抗争 十六世紀になると、斯波氏は南下作戦をとる三戸南部氏に対して、稗貫・和賀氏らと結束してしばしば衝突を繰り返した。天文九年(1540)、南部氏は戸沢氏の拠る滴石城を攻略して岩手郡に進出してきた。対する斯波詮高は、同十四年、岩手郡に兵を進め太田・雫石地方を攻略した。そして、二男詮貞を雫石城に、三男詮義を猪去館に配して、滴石地方および日戸・玉山寺など岩手郡の全円を制圧するかに見えた。 天文十八年(1549)、斯波領の農民と南部領の農民との間に紛争があって、斯波方は大挙出動して南部領を侵した。そして、雫石川下流を斯波方の勢力下におさめた。南部氏は失地回復のために出動して斯波方と戦ったが、勝負はつかなかった。その後、斯波氏が侵略した土地を南部氏に返還したことで和解が成立している。 永禄八年(1565)、三戸南部氏の北上谷進出が活発化し、斯波氏の勢力は漸次駆逐されていった。そのような、元亀二年(1571)ふたたび斯波領の農民と南部領の農民との間に紛争があり、翌三年斯波氏と南部氏は合戦をした。戦いは岩手勢を加えた南部方が優勢で、敗北した斯波詮元は、見前館と毒ケ森の線を南部氏との境界線に定めることで講和した。さらに詮元は南部氏の一族である九戸政実の弟弥五郎を娘婿に迎え、高田村を知行地として与えた。弥五郎は高田吉兵衛を称して、高水寺城の一角に居住した。かくして、斯波氏の領地は南部氏の攻勢によって、次第に侵食されていったのである。 天正十四年(1587)、詮元と不和になった高田吉兵衛は、身の危険を察して高水寺城から脱出した。この一件が斯波氏と南部氏との合戦に発展し、ついに斯波氏は滅亡の運命となるのである。斯波方を逃れてきた吉兵衛を南部信直は中野館におき、吉兵衛は中野修理と名を改めて信直に仕えた。詮元は稲藤大炊右衛門と長岡八右衛門に手兵三百余騎をさずけて中野館を攻撃させたが、斯波勢は敗れて高水寺城に退いた。その後、南部氏の攻勢により、斯波氏は滴石地方、簗川・滴石川を結ぶ不来方以北の地までを制圧されるに至った。 奥州斯波氏の没落 高水寺斯波氏は、南北時代以来、足利氏の一族として奥州北部に栄え、久しく威を張ってきた。しかし、天正の末期になると足利幕府は崩壊し、一族で奥州探題の地位にあった大崎氏も奥州の一大名に過ぎない存在となっていた。かくして、政治的背景を失った斯波氏は、郡内諸城主に対する威信をも失墜し、南部氏の攻勢にさらされて斯波郡六十六郷の統治すら困難になってきた。 このような状況にあって、斯波御所詮直(詮元か)は家臣の諌めもきかず日夜遊興に耽るばかりであった。ついに家臣のなかには、斯波氏を見限って南部氏に通じる者が増えていった。そして、天正十六年(1588)夏、岩清水右京義教・梁田中務らが叛乱を起こした。右京の兄岩清水肥後守義長は、ただちに三百余騎の兵を率いて岩清水右京の館の攻撃に向かったが、返って敗れ去った。右京方には中野修理らが応援したため、詮直みずからが兵を率いて岩清水城を攻撃した。 斯波氏の混乱をみた南部信直は、みずからが出陣して北上川を越えて陣ヶ岡に兵を進めた。詮直が兵を高水城に退くと、信直は岩手郡の諸勢を先陣として高水城を攻囲した。この主家存亡の危機に際して、志和郡東部の大萱生氏・江柄氏・手代森氏・乙部氏・長岡氏・大巻氏らは参陣した形跡がなく、斯波氏は内部統制の乱れと弱体の虚を衝かれた形であった。 南部氏の攻撃に斯波勢も防戦につとめたが、ついに、斯波詮直は高水寺城を没落して稲荷別当・成就院に忍び、さらに山王海に亡命したという。かくして、斯波郡六十六郷は南部氏の手に落ち、家臣の多くは南部氏に降り、名門斯波氏は没落した。斯波氏滅亡に際して、岩清水肥後守のみが義を重んじ主家のために戦った。また、白山寺・高水寺の衆徒も義軍を起こしたことが伝えられている。 斯波氏のその後 「落穂集」の斯波家の次第に、没落後のこととして「天正十六年信直公御出陣、岩手衆、先駆けとなり、高清水城を囲む、志和方多く降り、防戦のすべも尽きて、夜に乗じて孫三郎詮元逃走、残兵散々になり、討死義死二十三人に過ぎず、それより孫三郎秀重の所に潜み、慶長五年に利直公に仕え五百石を賜り、詮直と改む。十九年大坂従兵となり、旧臣下に立つことを恥じて、御暇を願い、京都に止まり浪人となる、其の男孫三郎は二条殿下に仕え、斯波左部少輔詮種と名乗り、諸大夫の列に入るという」と記している。 室町政権の創業とともに、奥州最北端の探題家として二百年にわたってさかえた斯波氏であったが、ここに歴史の荒波の中に消えていったのである。 【参考資料:岩手県史/紫波町の歴史/矢巾町史/都南村史/雫石町史 ほか】 ■参考略系図 ・『岩手県史』の記述から作成。 |