工藤氏は藤原南家、武智麻呂の四男乙麻呂の子孫為憲を祖としている。為憲は平将門の追討に功のあた常陸介惟幾の子であり、木工助であったことから工藤氏を称した。為憲の孫維景は駿河守として伊豆国狩野に住し、狩野氏の祖となった。その子維職は伊豆国押領使として田方郡伊東の地に住し伊東氏の祖となった。 維職の孫家次(家継)は狩野牧を領し、やがて久須美に居を移した。その孫工藤祐経は源頼朝に信任され、奥州征伐の功として、日向国の地頭職、陸奥国鞭指庄など二十四ケ国に所領を賜った。この祐経が、曽我十郎・五郎兄弟に殺された、いわゆる「曽我の仇討」の一方の人物である。そして、祐経の庶子祐時は伊豆を去って奥州に下向したという。 その子祐朝は工藤左衛門次郎を称し津軽に住し、祐朝の弟祐光は三戸名久井に住し、その子孫は糠部郡に繁衍した。しかし、南北朝の内乱に際して衰退し、後述する岩手郡の工藤氏とともに、その前後の史実はまったく不明となった。 ところで、祐時は建久九年日向国の地頭職を与えられ、その子祐光のとき日向に土着し、その子孫は南北朝内乱期に足利方に属して活躍し、子孫は日向国に繁衍した。そして、その後の室町・戦国時代を生き抜き、江戸時代には日向飫肥の藩主となった。 祐経−祐光の親子が奥州に、あるいは日向に土着したという、まったく北と南に下向したというのは、一体いずれが真実を伝えているのだろうか。 厨川工藤氏 奥州には、さきの工藤氏と別の流れで厨川工藤氏と呼ばれる一族がいた。こちらは、維職の弟景任の後裔工藤庄司景光から始まる。景光の子小次郎雪行光は、一家を挙げて源頼朝に仕え、文治五年(1189)の奥州征伐にも景光・行光父子ともに従軍し、それぞれ軍功をたて、そして、岩手郡厨川に所領を与えられ、その地に居を構えた。 『工藤家譜』によると、陸奥の西岩手郡と棚倉を兼領したとあり、西岩手郡とは、盛岡平野のほとんどを占める北上河西部の広大な土地である。また、古伝に工藤行光の所領を岩手郡三十三郷と伝えるが、その郷名は明確ではない。『巌鷺山縁記』に、「文治五年、泰衡退治之後、奥州五十四郡、軍功之侍三十六人に分かち与える、この時工藤小次郎行光、頼朝卿より岩手郡三十三郷、且つ貞任の古城、九月十二日行光に賜り、頼朝卿、同日使を以て、巌鷺山阿弥陀・薬師・観音、三尊、行光に賜り、大宮司を蒙る」と伝え、建久元年(1190)五月、行光は岩手山に登山祈祷したと伝えている。 建久五年五月は、泰衡滅亡のあと、その家臣であった大河兼任が乱を起こし討死し、奥州が静謐になった翌翌月である。頼朝は兼任の乱を聞くと、奥州に所領のある御家人を、奥州へ発向せしめたから、工藤一族もまた、急ぎ厨川に下向したものであろう。そして、乱の鎮圧後、領内の霊山で北上の鎮守でもある巌鷺権現社に、国家安泰を祈願したものであろう。 また、『奥南落穂集』にも「文治五年、頼朝公奥州征伐、泰衡滅亡、此の軍功により、闕所を御家人に分配し給ふ。其の中に伊豆の住人、工藤庄司景光の男、工藤小次郎に、岩手郡地頭職を給ふ、中務丞に改む。其の男工藤中務太郎長光代、厨川に住し、三代中務丞徳光、四代工藤小次郎繁光、五代工藤小次郎光敏、六代工藤主計種光といふ。---以下略---」と、伝えている。 また同書には、行光の弟、三郎祐光も同じく岩手郡に住したとみえ、元弘の頃より南部家に従って三戸郡坂牛村に住し坂牛氏を称したという。さらに、応仁のころ、工藤氏の分流が南部家に仕え、九戸郡葛巻村に住し、葛巻・田頭・穴沢・杉沢氏に分かれたという。そして、南北朝期になると南朝方の北畠顕家に従い、のちは南北に分かれて敵味方となり、互いに領地を掠奪しあって合戦におよび、徐々に勢力は衰えていった。さらに、惣領制の崩壊もあって、それぞれ一家をなし惣領家の命も行き渡らなくなり、工藤氏も漸く厨川のみを領する状況となり、ついには厨川氏を称して南部家に従うようになった、と記している。 このように、工藤行光をはじめ、弟たちも岩手に来住し、その子孫が糠部郡に広まった。工藤氏が岩手郡より糠部郡にわたって居住しているさまは、元弘・建武のころの南部家文書によっても確認でき、その消長の経過は『奥南落穂集』に記されたようなものであったのだろう。 厨川工藤氏は、鎌倉以来の地頭として勢力を有したが、南北朝争乱に際して、三戸南部氏に併呑され、岩手郡の地頭職を停止となり、岩手郡三十三郷は他氏の手に渡り、わずかに近郊十ケ村を領するに至った。このように往時の勢力こそ無くなったものの天正二十年(1592)ころまで、厨川城主として工藤氏は存続していたようである。 「落穂集」に「厨川兵部少輔光林は、行光より十三代の孫にして、天文年中、田子左衛門尉信高君出張のみぎり、 服従して、岩手郡残らず南部家の従兵に定まる。光林は旧領のうち八百石を安堵し、其の男厨川豊前(光勝)、父の遺領 八百石を領し、信直公に仕え、再々戦功を尽くす」とある。工藤系図にも、光林の子豊前光勝をはじめ二男光忠も 南部家に仕え、それぞれの子孫も南部家に仕えたことが知られる。 【参考資料:岩手県史 など】 ■参考略系図 ・『岩手県史』から |