治承四年(1180)、平治の乱で義朝に逆らって平清盛に味方し、源氏としてはただ一人公卿の座をかちとったのが源三位頼政であった。しかし、晩年に至っても平氏専制は衰えをみせず、ついに頼政は以仁王を説いて、「平氏追討の令旨』を出させることに成功した。が、勢千騎の頼政軍に対して、平家軍二万。この大軍を宇治に迎えて頼政一族は奮戦するも衆寡敵せず、合戦に敗れて一族とともに平等院で自害した。 この合戦で頼政の子兼綱もともに戦い敗死した。兼綱の一子顕綱は母に抱かれて尾張に逃れ、さらに三河の大河内に移ったという。子孫は代々そこに住じて、地名をもって大河内氏を名乗ったとされる。いわゆる古くからの三河の名族であった。 『応仁後記』には、三河の住人大河内正綱ら三河・遠江の在地諸勢力をまとめて「菊一揆」を結成したことが書かれている。集団の合じるしが「十六弁の菊」であったことからそう呼ばれた。大河内氏の家紋は「臥蝶(浮線蝶)」であったが、以後、中に菊を取り入れた。これが大河内松平氏の定紋「伊豆蝶」となる。 大河内信貞のとき徳川家康に仕えた。孫の正綱は長沢松平氏を継ぎ、家康に近侍して、関ヶ原・大坂の役にも出て武名もあった。しかし、正綱の真価は、秀忠・家光二代にわたって振るった財政方面における手腕であったようだ。それらの功が認められて、正綱は寛永二年(1625)相模国甘縄城主二万二千石を領した。 正綱のあとを継いだのが、「知恵伊豆」と称された大河内松平信綱である。信綱は少年にして考えたという。すなわち、父久綱や祖父のようでは、せいぜいなっても地方代官、将軍に接する機会の多い叔父正綱をたよって自分でそのようにしたという。 以後、信綱は家光幼時から仕えて、元和九年(1623)小姓組番頭に任じられた。そして十年後の寛永十年(1633)老中となり、島原の乱鎮定の功もあって、川越六万石(のちに七万七千石)の城主となった。 ■参考略系図 |