禅僧万里集九の漢詩文集『梅花無尽蔵』に、長享二年(1488)九月に上野中央部を南から北へ縦断した紀行文が記されている。集九は武蔵鉢形から上杉顕定の守る角淵に至り、そこから同じく顕定の守る白井城を経て沼田に至っている。そして、沼田館に至り城下の鍛冶屋に宿をとったとある。 沼田は上野国北部の利根郡を荘園化した利根荘の南端にあり、ここには鎌倉時代以降「沼田太郎跡」「沼田社別当跡」といわれる沼田一族が勢力を張っていた。沼田氏の系譜については不明の点が多く、その祖は中原系大友氏、平姓三浦氏などの説があるが、沼田氏氏寺の法城寺にある系図は三浦氏説となっている。同系図によれば、景泰以後嫡流の沼田氏を中心にして下沼田・発知・小川・名胡桃などの庶家を分出していることが知られる。 沼田氏の起こり─諸説 ところで、沼田氏は保元・平治のころから現れ、はじめは大友系で、のちに三浦系に移行したといわれる。『姓氏家系大辞典』には「沼田氏、上野の沼田氏、利根川沼田荘より起こりし豪族にて上州八家、東郡四家の一なり。出自につきては諸説ありて、あるいは緒方惟栄の子三郎惟泰の後と云い、あるいは三浦泰村の二男景泰の後などと云えど信じ難し、東鑑建久四年に既に沼田太郎あれば也。また新田の族党と云い、あるいは大友の族、利根親秀の裔とも云う」として、諸説を紹介して沼田氏の出自がはっきりしないことを記している。 江戸時代の元禄期に著わされたという『沼田記』には、「平将門の乱があった天慶年間(938〜947)都から平氏の某という者が庄田之庄に住み着き、土民から和田之様と称された。その子が和田四郎と言い和田の庄司となった。その子を和田太郎と云ったが、平経家と改名し、平清盛から沼田、利根勢田の両郡の安堵の御教書を下され、京にあって平氏に仕えた。頼朝が挙兵するとそれに参加し、頼朝に勤仕した。経家の子は経信で、その妹の利根姫は頼朝の妾となって懐妊したが政子の嫉妬によって殺害されそうになったため、西国に逃した。その後、生まれた男子は頼朝と対面し、畠山重忠に預けられて島津三郎と名乗り、大隅・薩摩に下った。一方、経信の子孫は戦国時代に長尾景虎の旗下となり、景貞の代に真田氏と戦って滅亡した」とある。これによれば沼田氏の始祖は平氏の某ということになり、島津氏の始祖を生んだ娘がいたことになる。 他方『沼田の歴史と文化財』『上野名跡考』などは、桓武平氏三浦泰村の二男景泰を祖にするとしている。ちなみに『続群書類従』の「三浦系図」には、三浦義継の女子一人は大友四郎経家の妻とあり、大友氏と三浦氏とが姻戚関係にあったことを伝えている。加えて、大友系図によれば、大友頼泰の母は三浦家連の女子とあり、家連は佐原義連の子である。このような関係から、「宝治の乱」で三浦一族が敗亡したとき、景泰は上州沼田に逃れたのかも知れない。 このように、沼田氏の出自に関しては諸説があり、そのいずれが真実なのかは定かではない。ただ、以上のような話があいまって沼田氏の出自伝説が形作られたものと思われる。 沼田氏の祖を景泰として、以後、景長、景盛と続き景盛の時「元弘の乱」が起こり鎌倉幕府が滅亡した。幕末の動乱に際して景盛は、はじめ幕府方にあったが新田義貞の旗揚げに参加し、景継は郎党を鎌倉攻めに参加させた。その後、景朝の代の応永十二年(1405)に小沢城を築き本拠を移したという。 沼田氏と白旗一揆 応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」に際して、沼田氏や発知氏の属する「白旗一揆」は管領上杉憲基に従って持氏方に属したようだ。このときの功によって白旗一揆の成員が利根荘の地頭に任命されたが、かれらは万里小路家に納めるべき年貢を押領するようになる。 その後、「永享の乱」が起って鎌倉公方足利持氏が滅亡した。ついで、永享十二年(1440)に「結城合戦」が起ると、白旗一揆の一員として沼田上野三郎と発知上総三郎、上杉清方の被官として発知平次左衛門が参戦し戦功を挙げている。結城合戦が終熄した翌嘉吉二年(1442)、白旗一揆が「十カ年諸公事免」と称して年貢を納めないとある。このことは、禅秀の乱に際して持氏の味方となった白旗一揆が、持氏から利根荘の地頭に任命されるとともに、十カ年の諸公事免除を与えられていたことを示している。しかし、領家に納めるべき年貢まで納めないのはあきらかに押領であった。領家である万里小路時房は、こうした白旗一揆による荘園押領に悩み、年貢の確保を目ざして必死の努力を試みたようだ。 時房は那波宗元を代官に任命して、年貢の徴収にあたらせた。宗元は鎌倉府の奉公衆で、持氏にも重用されていた。しかし、那波氏の一族自体が白旗一揆の成員であり、宗元がどこまで誠意をもって代官職を受けたのかはすこぶる疑わしいものである。結局、那波氏による代官請負ではらちがあかず、さらに宗元は永享の乱において持氏に殉じて死去してしまった。そこで、時房は上野守護である上杉氏に解決を求めることにし、守護代である長尾氏に協力を求めた。しかし、中央の貴族にとって遠隔地の荘園は不知行化してゆき、在地の武士を代官として年貢の徴収を請負わせようとしたが、それも在地の激しい変化によって有名無実化していったのである。 一方、南北朝から室町時代にかけての内乱は、鎌倉以来の惣領制の崩壊と庶子家・一族の惣領からの独立という動きが背景にあった。そして、惣領家から自立を目指す武士たちは互いに一揆を結んで自家保全を全うしようとした。それらのひとつが白旗一揆であり、その初見は南北朝期の貞和四年(1348)の四条畷の戦いであり、ついで文和元年(1352)の武蔵野合戦に登場する。以後、白旗一揆は主な関東の戦乱にほとんど姿を見せている。 白旗一揆ははじめ、児玉党・猪股党・村山党で構成された族縁的性格の強いものであった。それが、三党以外の武士も加わり武蔵北部から上野南西部にかけての地域に拡大し、地縁的性格の一揆に変化していった。そして、南北朝末期には上州白旗一揆と武州白旗一揆に分化した。そして、これらの武士団の活動と動向が中世日本が変革していく起爆剤となり、やがて下剋上という風潮を生み出していったのである。都で無為に過ごす貴族たちの荘園が武士たちに蚕食されていったのも、このような時代相のあらわれであった。 沼田氏の活躍 享徳三年(1455)、「享徳の乱」が起こると沼田一族は上杉方として活躍し、応仁二年(1468)の綱取原合戦において沼田彦三郎が討死し、その後継者に将軍足利義政から感状が与えられている。一方で、発知景儀は上杉氏との関係を深め、上杉顕定支援のため上野に出陣した越後守護上杉房定・定昌に従って活躍、定昌が長享二年(1488)白井で自殺を遂げると殉死している。上杉房能に従った発知六郎左衛門尉は各地に転戦し、房能が越後永正の乱で長尾為景に殺害されると、その報復のために越後に侵入した上杉顕定軍に参加して活躍している。 戦国時代のはじめ、沼田泰輝が幕岩城を築いて本拠を移した。泰輝の子が顕泰で、万鬼斎の号で知られる人物である。顕泰は享禄二年(1529)に沼田に築城を始め、天文五年(1531)に完成させ沼田氏の新たな居城とした。これが、のちに数々の戦乱の舞台となった沼田城である。顕泰は上野守護で関東管領でもある山内上杉顕定に従い、上杉氏の重臣箕輪城主長野業政の娘を妻に迎え、嫡男朝憲らをもうけた。妻の死後、金子新左衛門の娘を後妻に迎え景義が生まれている。 このころ、小田原を本拠とする後北条氏の勢力がにわかに伸張し、伝統的勢力である古河公方、両上杉氏らは後北条氏の攻勢によって次第に勢力を失いつつあった。北条氏の討伐を企図した関東管領上杉憲政は、天文十四年(1545)、扇谷上杉朝定・古河公方晴氏と連合して北条方の河越城を攻撃した。兵力は圧倒的に連合軍の優勢であったが、翌十五年の河越合戦によって、両上杉・古河公方連合軍は北条氏康に敗れ、扇谷上杉朝定は戦死、憲政、晴氏らはそれぞれ居城に逃げ帰った。 以後、北条氏の勢力は拡大の一途をたどり、天文二十年(1551)、北条氏康の攻撃を受けた上杉憲政は平井城を逃れ、沼田城に身を寄せてきた。顕泰は長尾憲景らと相談して、憲政を越後の長尾景虎のもとに逃れさせた。その後、上野に進駐した後北条氏に沼田顕泰は従った。 謙信の関東出兵 一方、憲政の亡命を受け入れた景虎は関東の動静を探り、二十一年、平子・庄田・宇佐美の諸将を関東に出陣させた。そして、永禄三年(1560)九月、みずから兵を率いて関東に出陣した。景虎は沼田城の東を迂回し、城の南の長井坂に布陣して小田原と沼田の連絡を断った。 この事態に北条孫次郎らは撤退し、孤立した顕泰は長井坂城の謙信の陣を訪れ降伏した。顕泰が隠退したのちの沼田氏は朝憲が継ぎ、沼田城主となった。かくして、沼田氏は謙信の麾下に属し、景虎の関東経略の一翼を担った。永禄三年に越山した景虎が関東諸将の幕紋を書き記した『関東幕注文』には、沼田衆として把握され「三からしのひたりともへ」とあり、沼田氏が三つ頭の左巴紋を使っていたことが知られる。 永禄四年、景虎は北関東の諸将を率いて小田原城を攻撃したが守りが堅く、攻略には至らなかった。包囲を解いた景虎は鎌倉に入り、上杉憲政から関東管領職と上杉氏の家督を譲られ、長尾景虎を改め上杉政虎(以下謙信と表記)を名乗ったのである。かくして、謙信は関東を舞台に後北条氏、甲斐・信濃の武田氏と合戦を繰り広げることになる。 永禄五年になると、武田氏と結んだ後北条氏の巻き返し作戦が活発化した。武蔵松山城が攻勢にさらされ、同年十二月、沼田城に着陣した謙信は北関東の兵を動員して甲斐・相模連合軍を圧倒しようとしたが思うにまかせず、結局、松山城は攻略されてしまった。いったん帰国した謙信は翌閏十二月、ふたたび沼田にあらわれ、翌年正月に帰国するまでの間、和田城を攻め、常陸小田城・下野佐野城を降し、吾妻を占領した。そして、武田信玄に対するため沼田城の兵力を増強し、周辺の諸城を固めた。このころ、沼田城に在城した越後の諸将は松本景繁・河田重親・新発田長敦らであった。 永禄九年夏、沼田に集結した越後勢に対抗して、信玄は岩櫃城を攻めつつ、九月には箕輪城を攻撃してついにこれを攻め落とした。箕輪城は西上野の要の城であり、ここが落ちたことで東上野諸将は動揺、ついに由良成繁が上杉氏から離反し、これに謙信股肱の臣でもある厩橋城将の北条高広も同調した。この事態は、謙信の関東経略を根底から揺さぶるものであった。 沼田氏の内訌 ところが永禄十一年、徳川家康と結んだ武田信玄が駿河に侵攻したことで武田・後北条の同盟が破れた。武田氏に裏切られた感の北条氏康は謙信との講和を望むようになり、由良成繁と北条高広は沼田在城の越後諸将と後北条氏と謙信の間を奔走した。将軍の御内書も下され、永禄十二年、氏康の子氏秀(のちの景虎)が謙信の養子となり、沼田城で対面したことで越相同盟が成立した。 この間、沼田朝憲は上杉謙信に従って行動していたが、永禄十二年正月、沼田氏に内紛が起った。万鬼斎顕泰は嫡男の朝憲に家督を譲って末子の平八郎景義と川場に陰棲していた。ところが景義の母である側室が、景義を沼田氏の家督にしようとして万鬼斎を口説いて朝憲を亡きものにしようとしたのである。側室金子氏の生んだ景義を溺愛する万鬼斎は、朝憲を川場に招き寄せると謀殺してしまった。 朝憲は沼田城主として、また謙信麾下の将として知られた人物で、その室は北条高広の娘であった。朝憲が謀殺されたことを知った沼田の家臣らは、万鬼斎父子を討とうと川場に押し寄せた。上杉謙信にしても沼田氏の内紛は、越後から関東に通じる戦略的要地である沼田を危うくするものとして看過していなかった。ただちに、北条高広、白井長尾憲景らを沼田勢に加勢させた。 万鬼斎はよく防戦したものの敗れ、大雪の中を会津の葦名盛重をたよって落ちていった。万鬼斎はほどなく会津で死去したが、平八郎景義は葦名氏の庇護を受けて沼田への復帰を画策した。 朝憲が死去しことで城主を失った沼田城には、柴田左衛門尉が城代として覇権されたが、柴田は沼田の家臣らを掌握できなかったため、上野中務大輔・川田伯耆守らが城代となった。以後、沼田城は上杉氏の支配下に置かれ、上杉謙信の関東経略の重要拠点として機能した。 その後、元亀二年(1571)北条氏康が死去すると、子の氏政は謙信と断って信玄と和したが、その信玄も元亀四年(天正元年=1573)上洛の途上で陣没した。北陸方面の作戦を一段落させた謙信は、天正六年三月、総力を挙げての関東出陣を陣触れした直後に急病に倒れ帰らぬ人となった。脳卒中であったといわれる。 沼田氏の滅亡 謙信の死後に起こった景勝と景虎の後継争いである「御館の乱」に際して、沼田城将の河田重親、厩橋城将の北条景広らは景虎に加担した。乱は景勝の勝利に終わり、河田重親は後北条氏を頼り、さらに由良氏のもとに身を寄せた。沼田城に残った藤田信吉は武田方の真田昌幸に通じ、天正八年、沼田城を昌幸に引き渡してしまった。 天正九年三月、会津に逃れていた沼田景泰が沼田城を奪還しようとする事件が起こった。父顕泰とともに会津に奔った景義は父の死後、由良氏を頼って上野に戻り、矢場城主横瀬勝繁の婿となっていた。おそらく由良氏は景義を利用して、沼田城を手に入れようという魂胆があったのであろう。藤田信吉から沼田城を譲られた真田昌幸の支配が不安定な時期に乗じ、由良国繁は景義に大胡・那波氏らの加勢を添えて、渡良瀬谷から利根郡に進出させた。景義着陣を聞いた沼田衆には参陣する者が多く、景義勢は迎え撃った真田方の矢沢頼綱を片品川に破り、さらに藤田信吉・海野輝幸と田北の原で戦い、北に回って高王山城に入り戸神に布陣した。 これに対して、ひそかに沼田に着陣した真田昌幸は景義の伯父金子家清を調略した。家清と示し合わせ高王山城の水の手から侵入した真田軍は、沼田城を一気に抜こうとしていた景義を不意打ちで取り込め討ち取ってしまった。この景義の死によって、沼田氏の嫡流はまったく滅亡してしまった。・2005年07月07日 【参考資料:沼田市史/子持村誌/群馬県史/三浦氏の後裔 ほか】 ■参考略系図 |