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仁木氏
●二つ引両
●清和源氏足利氏流  
 


 仁木氏は三河国額田郡仁木郷を本領とし、 足利義康の長男足利矢田判官代義清を祖とする。義清の子広沢義実は上野国広沢御厨を領していたようだが、子実国の頃に本家の足利義氏が三河守護となり、足利一族の多くが三河国に移った。このとき、実国も下野から三河額田郡仁木に本拠を移し、地名をもって仁木氏を称したようだ。
 『吾妻鏡』の嘉禎三年(1237)四月十九日、将軍頼経を迎えて足利義氏邸で酒宴が行われた際、 引出物の役人に、足利一族と共に「日記五郎」の名が見える。 また、『吾妻鏡』の建長六年(1254)一月二日の足利義氏の沙汰による椀飯の際に、やはり引出物の役人として「日記三郎」の名が見えるが、ここに見える「日記」は、実名比定は難しいものの仁木氏のことだと考えられている。しかしながら、仁木氏は足利一族の末流として家格は低かったと考えられる。

仁木氏の活躍

 南北朝内乱期の頼章・義長兄弟の時には、足利一族として尊氏・直義に属して転戦した。 頼章は建武三年(1336)に尊氏が九州へ敗走した際に丹波の守護職となり、 尊氏の再上洛へ向けて軍事行動を展開した。
 九州で勢力を回復した尊氏は上洛軍を起し、兵庫の「湊川の合戦」で楠木正成に勝利し、新田義貞を破って京都を征圧した。このとき、新田義貞は恒良・尊良親王を奉じて越前の金ケ崎城にに入り勢力挽回を図った。尊氏は、高師泰・今川頼貞・小笠原貞宗・塩冶高貞、そして仁木頼章ら二万の大軍を率いて、金ヶ崎城へと向かうと義貞を討ち取り、子の義顕、尊良親王らを自害に追い込み金ケ崎城を攻略したのである。
 一方、仁木頼章の弟義長は尊氏の上洛以降、鎮西大将軍として九州方面の軍事を担ったが、建武三年夏に一色範氏に同職を任せて上洛した。以後、各地を転戦して暦応元年(1338)遠江守護となった。のちに伊勢・志摩守護に転じ、 伊賀守護を兼任した。
 尊氏と和睦した後醍醐天皇は、その後吉野に逃れて南朝を開いた。対する尊氏は北朝を立てて室町幕府を開き、高師直を執事とした。のちに執事職は、仁木頼章や細川清氏らが継承している。やがて、尊氏の弟直義と高師直の不和が生じ、それは尊氏と直義兄弟の対立へと発展していった。その結果、尊氏=師直に近い仁木氏は、貞和三〜五年(1347〜49)に全ての守護職を罷免された。
 そして「観応の擾乱(1350〜52)」が起ると、仁木氏は終始尊氏党として行動し、観応二年(1351)十月、頼章は幕府執事に起用され、丹波・丹後・武蔵・下野守護を兼ねた。弟の義長も伊賀・伊勢・志摩・遠江・三河の守護を兼ね、仁木氏は最盛期を迎えたのである。ところが、 延文三年(1358)の尊氏の死により、頼章が執事を辞職し翌年没すると、 義長は政敵細川清氏のために康安元年(1361)南朝に降伏した。結果、幕府の追討を受ける身となり、結局仁木氏はすべての分国を失った。以後、紆余曲折はあったものの、仁木氏による世襲分国の形成はならなかった。

その後の仁木氏

 十五世紀、応仁の乱の混乱に乗じた仁木氏は伊賀の支配権を回復したようだ。そして文明二年(1470)、東軍に属した仁木氏は西軍支配下の木津に出陣、これに筒井氏らも味方したが西軍が優勢であった。結局、実質領国まとめる力はなく、仁木氏の守護は名ばかりとなり、伊賀一国は在地の有力土豪が割拠する状態となったのである。
 その後、大永年間(1521〜28)に至って、将軍義稙は仁木兵部少輔をして伊賀守護とした。このとき、伊賀の国人領主柘植一族は仁木氏に従わず、しばしば合戦におよび仁木軍を敗走させている。その後、兵部少輔の子某が更めて柘植党と戦ったが、柘植宗家・宗能父子によって仁木軍はふたたび敗北を喫している。以後、仁木氏の動向は不明で、その最期も遥として知れない。 ・2005年02月28日


■参考略系図
 


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