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浪岡北畠氏 ●ダイジェスト
笹竜胆*/五七の桐
(村上源氏北畠氏流)
*北畠誠悟様から情報をいただきました。


 浪岡氏は南北朝期に陸奥鎮守府将軍となり、東北において南朝方の中心として活躍した北畠顕家の後裔である。北畠氏が浪岡に移った時期については、正中年間説・応永年間説のほか諸説があって、明確ではない。
 顕家の死後、顕家の子顕成・孫顕元は南部氏に庇護されて稗貫の船越に住んだ。ところが、その後南部氏が北朝方と誼を通じたので、公然と北畠氏を庇護することができなくなり、浪岡へ一行を移したのであるという。このとき、浪岡(行岡)で顕成父子を迎えたのは安東氏であり、安東貞季は顕家の娘を妻にしていたこともあり、北畠氏を迎える要因になったのだろう。また、浪岡は津軽の中枢から外ケ浜へ通じる要衝の地でもあり、ここに北畠氏を置くことは安東氏にとっても有効な政策であったわけだ。
 北畠氏が浪岡に入部した理由の別説として、顕家に仕えた浪岡兵部大夫の娘が顕家に仕えて顕成を生み、この縁で浪岡に入ったとするものもある。
 浪岡における北畠氏宗家は浪岡御所と称された。顕家の弟顕信の子守親ものちに浪岡入りしたといわれ、この系統を河原御所と称している。また顕家の息定顕の子で、出羽天童城に拠ったと伝えられる北畠天童丸も、後年浪岡入りしたといわれ、鯵ケ沢の天童山に拠った伝えられる。
 北畠氏は、当初、東山根にある城館にいたと考えられており、顕義の代にいたって浪岡城を築き、ここに拠ったと考えられる。その時期は十五世紀後半と思われる。
 戦国期の北畠氏は、大光寺氏・大浦氏と並び津軽を三分する勢力となっていた。浪岡御所の具永・具統・具運は、三代にわたり京都に使者を送り官位を得ている。しかし、永禄五年(1562)川原御所の北畠具信が浪岡御所北畠具運を殺害する「川原御所の乱」が起こり、以後、浪岡御所北畠氏は急速に衰えていった。
 浪岡御所滅亡のときについては、天正六年(1578)七月、大浦為信の攻撃により、北畠顕村は捕えられ、のちに切腹したとする説。天正十八年二月、大浦方の攻撃により滅亡したとする説の二説がある。いずれにしても、名族北畠氏は大浦氏の手で滅亡させられたことは間違いのないところだ。
 その後、浪岡御所最後の当主顕村を補佐した顕則は、浪岡落城後、南部家臣となって浪岡氏を名乗った。その弟慶好は、安東(秋田)氏に仕え家老職としてこれも浪岡氏を名乗った。そしてもう一人の弟顕佐が、顕村の娘と結婚し浪岡北畠氏宗家当主となり、館野越に隠棲し江戸時代山崎氏を称して子孫は相続いた。明治15年北畠氏に復姓して、今日に至っている。

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