中川氏の発祥については従来詳らかにされていない。『寛政重修諸家譜』には、「摂津国多田源氏、左衛門尉清村が末葉なり」とのみ記されている。また一書には「摂津国中川氏は多田重国子の清深が中川を称したもとに始まる」と述べられている。 多田源氏は、清和源氏頼光流である。すなわち頼光父の満仲は摂津国多田を拠点に開発を進めて「多田源氏」と仰がれ、長子頼光より「摂津源氏」を称した。ちなみに次子頼親は「大和源氏」、三子頼信は「河内源氏」のそれぞれ祖となった。河内源氏は、前九年後三年の役で活躍した頼義・義家父子をはじめ、新田氏祖の義重、足利氏祖の義康を出し、また義家の裔・頼朝が鎌倉幕府初代将軍となるなどして、嫡流となる。 さきに出た、中川氏の祖とされる清深は、頼光の後胤になる。鎌倉幕府方として戦い、建武年間より摂津国豊島郡中川村に住し、中川を家号とした。 戦国期に出て活躍した中川清秀は、重清の子に生まれた。重清は、桓武平氏良文流の後裔という常陸国人の高山重利の次男に生まれ、天文年間に都に上り、ついで摂津国に移って中川清村に仕えた。清村の嫡男清照が戦死して嗣子が絶え、養子となり、清村女を室とした。このとき、「平氏」を源氏に改めた。そして清秀が生まれた。 重清は稲田城に住し、池田城主の池田勝正に属した。永禄七年(1564)には山崎右馬允、元亀元年(1570)には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降り、以後村重に属した。元亀三年、高槻城主の和田惟政を討ち取って茨木城主となり、六万石を領した。 中川清秀の活躍 重清の嫡子清秀は信長に仕えて、同様に荒木村重に属した。しかし、天正六年(1578)、村重が本願寺や毛利氏と結んで信長に背くと、最初は村重に従ったがのちに信長に味方した。この清秀の翻心には古田重然の働きがあった。信長に仕える重然は清秀の妹婿で、懸命に清秀を説得したという。 また、清秀は熱心なキリシタンとして育ち、幼少から十字架を離さなかったという。その名残りが、中川氏の家紋のちに「中川久留子」とよばれるものに伝わっている。こんな話も伝わっている。清秀が同じキリシタン信者である和田惟政を討ち取ったとき、惟政の前立てが、バテ十字と呼ばれる変わった十字紋であった。これが「中川久留子」の原形となった。信仰もさることながら、清秀、武功の紋でもあった。 天正十年三月、武田勝頼攻めにも従軍、そして六月信長が本能寺で光秀の手によって横死すると、”山崎合戦”では秀吉に属して先鋒隊の二番に編成され、明智光秀軍大破に戦功があった。翌年、”賤ケ岳の合戦”では大岩山の砦を守衛したいたが、柴田勝家与力の佐久間盛政に急襲されて討死した。
あとを継いだ秀政は信長の婿となり、信長に仕えた。天正十一年(1583)家督、十三年秀吉より一万石加増のうえ播磨国三木城を賜った。”朝鮮の役”に渡海。文禄二年(1594)、朝鮮水原城のほとりで鷹狩りをしていたところを毒矢で射かけられて没した。 秀政には子がなく家督は、叔父の秀成が継いだ。文禄三年(1594)、三木城を引き払って、豊後国岡城に転じた。慶長二年、第二次朝鮮の役に渡海、藤堂高虎とともに六陣にあった。”関ヶ原の合戦”に際しては豊後に在国したが、家康に通じる証として、同国臼杵城主である「石田三成党」の太田宗隆と戦い、これを打ち破っている。秀成のあとは久盛が継いで、代々豊後岡を領して、明治維新に至った。 ちなみに、中川氏が拠った岡城は、瀧廉太郎の作曲で有名な「荒城の月」の舞台でもある。 ■参考略系図 |