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内藤氏
下り藤
(藤原氏秀郷流)


 先祖は源頼朝の御家人といわれ、応仁年間のころ三河に移り住んだという。重清のとき、松平親忠の居城岩津を攻めた西三河の国人衆のひとりであったらしい。以後、内藤氏は安城に入部した松平氏に服属している。
 居村は安城の近くにある姫で家城を構えた。その規模は「東西約四十六間、南北六十七間」であったといわれる。代々、一向宗門徒であった。松平宗家の家臣としての事蹟が明かになるのは義清からで、義清は信忠・清康に仕え、上野城を預けられた。義清は石川忠輔・植村新六某・天野貞有・林藤助某とともに岡崎の五人衆と呼ばれた。
 清長らは弓の名手で、天文十一年(1542)織田勢が上野城を攻めたとき、数十人を射殺したという。内藤氏ではじめて大名となった嫡子家長も「無双の弓の上手」といわれた。家長は、三河一向一揆のとき門徒であったが、一揆方にくみせず家康方についた。その忠節によって、家康から偏諱を受けている。
 さきの織田勢の上野勢のときに、剛弓を放って、押し寄せる敵を倒し、侵入を阻止した若武者がいた。内藤正成である。十五歳であったと伝えられる。正成は清長の弟清政の次男で、伯父に属して初陣の功を立てた。家康より十四歳の年長になる。
 家康が成人すると、家康に近侍し、護衛を兼ねて御意見番の一人となる。家康の危機のひとつである三河一向一揆の乱戦のときも、正成は家康の側につき、刃向かってくる門徒を弓でことごとく退けた。元亀三年(1572)の三方ケ原合戦も家康の危機のひとつである。武田信玄の大軍に、劣勢の家康軍は散々に破れる。撤退する家康の護衛のなかに正成とその子弥次郎がいた。正成は「なんじ、殿のお命に代わらんや」と叫ぶ。父の悲痛なことばに、弥次郎は突貫してくる敵中に斬りこみ、阿修羅の働きをして討死した。家康は九死に一生を得たのである。
 その後、天下をとった家康が江戸で幕府を創設し、武功派より官僚派が重用される世になると、古い型の武人である正成は、窓際族になってしまう。わが子を犠牲にしてまで家康に献身したのに、武蔵埼玉郡に五千石を与えられたに過ぎなかった。正成はへそを曲げて、采地の萱間村にひきこもり、その居館で淋しく没した。
 本家の内藤家長は、関東入国後、上総国佐貫二万石、さらにその嫡子政長は、陸奥国磐城平で七万石にと大きく出世しているのとは対照的な正成の人生であった。


■参考略系図



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