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長倉氏
扇に月丸紋*
(清和源氏佐竹氏族)
*佐竹一族として扇に月丸紋を使用したようだ。


 長倉氏は佐竹行義の二男義継が、文禄元年(1317)に那珂郡長倉村に築城、長倉氏を称したのに始まる。
 室町期の応永十四年(1407)、佐竹宗家の義盛が没したが男子がなかったため、宿老の小野崎氏や江戸氏は鎌倉公方足利持氏の干渉もあって関東管領上杉憲定次男龍保丸(のちの義憲)を後継者に定めた。しかし、佐竹一族の山入氏・長倉氏・額田氏らはこれに反対し、佐竹氏の家督相続について一族間に反目が生じ、これに家臣層も加わって一大争乱となった。これを「佐竹の乱」あるいは「山入一揆」とよぶ。
 山入氏は師義のとき佐竹氏から分かれ、南北朝期には足利尊氏に直仕するなど本家に匹敵する勢力を有するに至った。そして、山入氏を中心とした長倉・稲木氏らの勢力は一揆を結んで、佐竹義憲排斥の急先鋒となった。
 長倉義景は山入与義や額田義亮らとともに龍保丸の入国を阻止するため、同十五年、長倉城に拠って兵を挙げた。一方、公方持氏は、これを機会に関東における反持氏の京都扶持衆を解体しようと積極的に兵を集め長倉城攻撃を行った。城を包囲する公方方の兵力に圧倒された長倉方は降服勧告を受け入れて軍門に降り、龍保丸体制に協力することを条件に許された。

鎌倉公方軍を迎え撃つ

 応永二十三年、前の関東管領上杉氏憲(入道禅秀)が公方持氏に叛旗を翻した「禅秀の乱」が起こると、反義憲派の佐竹一族である山入一揆は、鎌倉公方に反して禅秀に味方して挙兵に同調した。反乱は一時、氏憲方が有利であったが、やがて室町幕府が関東公方を支援するに及んで形勢は逆転し、応永二十四年(1417)一月、足利満隆・上杉氏憲らが自殺して乱は終わった。
 乱において持氏に属し戦功を立てた佐竹義憲は幕府評定所の頭人に任ぜられ、隆盛の機運をつかんだ。一方の山入氏らは乱後持氏に降ったが、佐竹一族の稲木義信は依然稲木城に拠って持氏に反抗していた。この義信の反抗は長倉義景の反乱も誘発し、さらに、豪族の山県海天の参加をみるほどになった。持氏は佐竹義憲にその征討を命じたので、義憲は長倉義景・山県海天を降し、続いて稲木城を落して義信を殺害した。
 そして永享七年(1435)六月、義景の子義成のとき長倉城は鎌倉公方足利持氏の討伐を受けた。この合戦のことを記したのが有名な『長倉追罰記』である。それによれば、「御所の御旗進発し、岩松右馬助持国大手の大将承り、六千余騎にて張陣」「大手に鎌倉殿の軍勢、その次に大将岩松殿が率いる公方勢、そして野田・徳河・佐々木・梶原・簗田・植野をはじめとしてすきまなくつづく。左は山内殿そして那和・前橋・金山・足利・佐貫・佐野を始めとして、上州一揆の同幕がうちつづく。右には扇谷殿を始め江戸・品川・河越・松山・深谷をはじめとして武衆一揆が布陣した。東は那須の一党や海上、油井・大須賀・相馬の総州一揆が布陣した。西は小田・結城・宇都宮勢が布陣し、北は小山・薬師寺・高橋らが陣屋を並べ、大手搦手で入れ替え入れ替えの攻戦がつづいたが、堅固な城のため攻め取ることができなかった」とある。
 このように攻撃軍は、大手・搦手より入れ替え、入れ替え攻め立てたが、要害堅固な長倉城の籠城軍は善戦し、落城の気配を見せなかった。ついに、結城・宇都宮の両将が包囲を解き、長倉遠江義成も籠城を解いた。この合戦で、「彼の(長倉)遠江守名を日本に上げ、挙を八州に振るった」と記されている。『長倉追罰記』には、この時に参戦した武将の家紋百二十余が記され、それは通俗的に流れていて事実を記録したものとしてはにわかに信じることができないが、当時の家紋を考えるうえで貴重な史料となっている。

佐竹宗家の覇権確立

 延徳二年(1490)佐竹宗家の義治が死去し、その跡を子の義舜が継いで四か月が過ぎた同年閏八月、山入義藤・氏義父子と佐竹義武・長倉義久・天神林義益・宇留野義公ら佐竹一族、さらに水戸の江戸氏らが一気に太田城を襲撃した。若い義舜はかなわず、母方の大山氏を頼って孫根城に走った。
 山入氏を盟主として、長倉・額田の佐竹一族と常陸東北部に古くから勢力をもっていた国人領主の山県・河井・檜沢氏らは「山入一揆」を結成し、関東公方やそれと結び付いている佐竹宗家に抵抗していたのである。山入義藤は佐竹義舜を討とうとして太田城を攻めたが敗れた。対する義舜は明応元年(1493)、山入党である長倉義久の長倉城を那須資実とともに攻撃、義久は力尽きて降伏している。
 その後、山入義藤が病没すると、その子氏義と佐竹義舜との間に和議の機運が高まった。これは、佐竹氏と親密な間柄にあった隣国の岩城氏の斡旋によるものであった。しかし、こうした和議の動きにも関わらず、氏義は明応九年(1500)には孫根城を攻めて義舜を東金砂山に追い込んだ。が、氏義が義舜を完全に制服しえない間に情勢は急変した。小野崎・江戸氏らの諸豪族が義舜に協力することになったのである。
 孤立化した山入氏は、急速に勢力を失墜させてゆき、逆に義舜は権勢を固めていった。そして、永正元年(1504)義舜は氏義から太田城を奪還することに成功した。義舜はさらに氏義を追い詰め、ついに氏義は子の義盛とともに茂木で殺害された。かくて一世紀に及ぶ佐竹宗家と有力庶子家山入氏との抗争は佐竹宗家の勝利に終わった。以後、佐竹氏の戦国大名化は進み、長倉氏をはじめとした佐竹一族、常陸の諸豪族は佐竹氏の支配に組み込まれていくことになる。
 しかし、長倉義忠は、佐竹義篤の弟義元が兄に背いたとき、これに与して謀旗をひるがえした。だが、義元が敗れて滅ぼされると、義忠も那珂郡野口の地で殺害された。義忠の子義重は弟の大沢六郎義尚とともに佐竹義篤に従い、天文十二年(1543)奥州に出陣して戦功を挙げたが義尚は関山で討死している。

長倉氏の没落

 長倉氏最後の当主は義重の孫・義興で、父祖代々の長倉城に拠って佐竹義宣の旗下に従った。天正十六年(1588)七月、家臣の小林掃部に那珂郡小瀬沢の地を宛行い、軍役などの義務を申し付けている。
 天正十八年(1590)、九州平定を終えた豊臣秀吉は、小田原征伐の軍を起こした。当時、佐竹氏は伊達氏の南下を防ぐために白河で対陣していたことでもあり、小田原参陣は容易ではなかった。しかし、石田三成の仲介を得て、佐竹義宣は一族・諸豪族、宇都宮国綱ら下総・下野の諸大名らとともに、五月秀吉に伺候した。このとき、義興も義宣とともに小田原参陣し太刀・金を進上した。小田原北条氏滅亡後の仕置によって、佐竹義宣は常陸一国を安堵され領内統一をめざした。まず江戸氏を追放し大掾氏を滅ぼし、さらに常陸南部の大掾一族を謀殺して国内を統一すると水戸城に入った。そして太閤検地の結果、秀吉から五十四万五千八百石の所領を安堵され天下の大大名となった。
 義宣は家中の知行割替を行い、一門を領国周辺部に配し、蔵入り地を設置し管理を委任した。このとき、長倉城主長倉義興は義宣から新治郡柿岡方面に二千三百二十石余の蔵入地を預けられ、柿岡城に移った。長倉氏が柿岡に移った後の長倉城には、中田駿河・田村修理亮ら四人の旗本家臣が入って守備の任に付いている。その後、文禄二年の朝鮮出兵の時には肥前名護屋に在陣し、七月、陣中から国元の上平・河井両氏に書状を送り、九州方面の状況や在陣中の過重負担について伝えている。
 さて、柿岡城主となった長倉義興は、慶長四年(1599)水戸城修理のことで佐竹義宣にさからい、太田正宗寺に幽閉され、翌年四月に急逝した。自殺とも毒殺ともいわれている。
 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦のとき、佐竹義宣の態度はあいまいであったため、慶長七年に常陸から出羽久保田へ転封となった。これは減封であり、多くの佐竹家中の武士が帰農したり牢人した。このとき、義興の弟言信は野口に住していたが、長男の当家は秋田に移り、次男当春は野口に留まるという事態になった。佐竹氏の秋田転封によって佐竹氏麾下の中世武士は運命の転変に身をさらしたのであった。義興の子義雅は、父の頓死後、大叔父の大沢義益を頼り、その子義学のときに松平相模守光仲に仕えたという。

……余談ながら……

 家紋の基礎資料の一つである『長倉追伐記』は、永享七年(1435)足利幕府が、常陸佐竹郡の長倉遠江守を追罰した戦記物で、そこに全国の武将が勢ぞろいした。そのときの陣幕の紋が収録されていて、当時の紋を知る上で貴重な資料となっている。


■参考略系図
・義景以降義忠までの世系が多いような。兄弟による相続があったのか、あるいは代々早くに子供が生まれたのだろうか??
    


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