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長門岡部氏
十 萬
(武蔵七党猪股党支族)
長門岡部氏の家紋は不詳、仮に関東岡部氏の家紋を掲載。


 岡部氏は武蔵七党の一である小野姓猪股党の支流と伝え、『武蔵七党系図』によれば猪股忠兼の子忠綱が武蔵国榛沢郡岡部の地を領して岡部六大夫を称したことに始まるという。忠綱の孫六野太忠澄は、源頼朝の旗揚げに従い、一の谷合戦で平忠度を討つ功を挙げた。文治五年(1189)の奥州合戦にも参加し、戦功をあげている。
 忠澄には三人の男子があり、二男の景澄が長門国美禰郡岩永の地頭職に補任された。景澄の下向は承久二年(1220)とされるが、承久三年とする説もあり、微妙な相違がある。おそらく承久の乱後、新補地頭として長門国に入った西遷御家人のひとりであろう。かくして、岡部氏は岩永を本拠として、戦国時代にいたるのである。

■岡部氏の分派

岡部忠澄┳広澄 →頼朝の命により大友能直に従って九州に下向。
    ┣景澄 →長門国美祢郡岩永の地頭職。
    ┗忠澄(忠季)
忠澄の子に景澄がみえない系図もある。また、広澄の弟忠澄は忠季が正しいようだ。
小野姓岡部氏が用いる家紋として、十萬の他に万字、丸に十文字、九曜などがある。


岡部氏の長門土着

 岩永岡部氏は文永・弘安の元寇に際して蒙古軍と戦い、元弘の変には長門探題北条時直の指揮下に入って伊予に出陣するなど、関東御家人として行動した。元弘三年(1333)の時直の伊予出陣は大敗に終わり、岡部小六・孫六らが伊予星ヶ岡で戦死したことが知られる。
 後醍醐天皇の勅旨によって宮方に参じた石見国三本松城主の吉見氏が長門に侵攻すると、時直は厚東、豊田氏らにこれを迎撃させた。この陣に岡部氏も探題方として参加していたようだが、ほどなく、厚東氏らとともに宮方に転じて探題を攻撃、長門の大勢は定まった。
 こうして建武の新政がなったが、足利尊氏の謀反によって南北朝の動乱時代となった。当時、長門では厚東・豊田の二大豪族で、足利氏に与する厚東氏が守護職にあった。岡部氏は厚東氏に属して尊氏方として行動したが、のちに厚東義武が大内弘世によって滅亡すると弘世の麾下となった。
 以後、岡部氏は大内氏に属して美禰郡岩永の地を保ったようだが、その事績は系図や家伝がなく不明というしかない。とはいえ、応永十四年(1407)大内盛見署判氷上山興隆寺唐本一切経勧進帳に岡部貞景、文明十八年(1486)大内義興の氷上山上宮御社参目録中に岡部武景、さらに永正十六年(1519)・享禄三年(1530)には岡部興景らの名が確認できる。興景は義興の一字を拝領したものと思われ、大内氏家中において岡部氏が重用されていたことがうかがわれる。

大内氏の最期

 興景のあとを継いだのは隆景で、名乗りは大内義隆の一字を賜ったものである。隆景は天文十一年(1542)の出雲進攻に従ったのが文献にあらわれる初めで、同十五年に家督を受け、従五位下に叙せられた。
 大内氏は長門・周防を中心として、中国から鎮西にかけての大領国を支配する大大名であった。義興は足利義材を奉じて上洛、管領代として京畿に威勢を振るった。義隆も鎮西や出雲に出兵するなどして、武威を近隣に振るったが、次第に政治に飽き文治に流れるようになった。結果、家中は文治派と武断派に二分され、武断派の領袖が陶隆房(のち晴賢)であった。
 天文二十年(1551)、陶隆房が若山城で謀反の挙兵、山口に乱入した。義隆と側近の武将、折から山口に滞在していた公家、女房たちは法泉寺に退去した。一夜あけると多くの武将たちが姿を消していたが、岡部隆景は義隆ら一行を守って大津郡仙崎に落ちていった。そして、九州に渡海しようとしたが折からの時化で船が出せず、一行は深川大寧寺に入った。
 反乱軍は大寧寺に迫り、ついに義隆は側近の冷戦隆豊の介錯で自刃、一族・郎党がそれに従った。このとき、隆景らは青景越後守に遺書を残し、そのなかで主を見限った浅ましき人々に無念の情を述べたことはよく知られる。隆景の名は千載に輝いたが、その死をもって、鎌倉以来、岩永を領した岡部氏は滅亡した。・2007年04月24日

参考資料:秋芳町史/日本城郭体系 ほか】


■参考略系図
・秋芳町史に掲載されている系図をベースに作成。
    


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