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向井氏
●上り藤
●清和源氏足利氏流仁木氏族  
 


 伊勢国にその発祥をもつ向井氏は天正十八年(1590)九月、兵庫助正綱のとき、徳川御船手四人衆の一として駿河より三浦半島に移住した。四人衆とは向井氏のほか間宮酒造丞高則、小浜民部左衛門尉景隆、千賀孫兵衛某である。
 なかでも向井氏はとりわけ首位にあって、駿河国時代から徳川家康を送迎する御召船奉行の役職にあった。元和元年(1615)、船手衆三家が江戸詰めとなると、この向井氏だけが三浦半島に在留し、以後、江戸幕府倒壊に至るまで、永きに亘ってその足跡を遺した。

向井氏の発展

 向井氏の本貫地(苗字の地)について、「伊賀国向庄」とされ、この地は、現三重県鈴鹿郡関町加太向井と比定される。『清和源氏向系図』によれば、向井氏始祖は、源頼義流・仁木実国の後胤・仁木右京大夫義長の子、四郎尾張守長宗と伝える。
 二代中務大輔長興は、応永二十二年七月、将軍義持より美濃国山中庄を給ったとある。この地は、現岐阜県不破郡関ヶ原町大字山中と比定できる。古代三関の一、不破関に近い交通の要所であり、のちに関ケ原合戦か繰り広げられた地である。伊賀国向庄も、この美濃国山中庄も、共に関と名のつく交通の要所であり、その給地から察すれば、向井氏は当初、水軍というより内陸部で活躍していたと考えられる。
 向井氏は四代長春のとき、すでに北畠水軍愛州氏に従属していたと推される。このときの愛州氏の居城は勢州玉丸山城であり、向井氏もまた勢州田丸に居住していたと思われる。おそらく、向井氏は、伊勢大湊を勢力下におく北畠氏の水軍として、のちに頭角を現す海戦のイロハを愛州氏から学び培っていったのであろう。
 七代伊賀守正重は、『向系図』によれば弘治年間(1555-8)、駿河国持舟城主・朝比奈駿河守の招きにより、今川氏被官となったとある。天正七年九月十九日、徳川家康の攻撃により駿河国持舟城において奮闘し、養子伊兵衛正行と共に討死している。正重六十一歳、正行四十二歳であった。そのあとを継いだ兵庫頭正綱は三保袋城にいたために生残り、天正七年十月、武田勝頼から父の遺跡を相続することが許された。
 正綱が父を失ってからの武田水軍としての意気込みには目覚しいものがある。翌天正八年、北条衆・梶原備前守景宗と沼津千本松原沖において船戦し、敵船を乗取り、勝頼より早々に次の直判感状を給った。しかし、この僅か三か月後の天正十年三月、勝頼が織田、徳川連合軍に攻められ、相次ぐ臣下の離反もあって天目山山麓で自刃し、武田氏は滅亡した。

徳川旗本として復活

 主君を失って浪人となった正綱に口を付けたのは、むろん徳川家康である。正綱は家康のブレーンで鬼作左と称された本多作左衛門重次の説得により徳川氏被官となった。正綱にとって父の仇である家康に麾下することも、戦国時代の武士の生き様なのである。このときの食禄か二百俵。これが徳川水軍向井氏の出発点であった。
 そして、翌十一年には本多重次と共に伊豆北条氏を攻め、矢疵を負いながらも敵大将・鈴木団十郎の首を取り八月十四日、初めて家康より感書を下された。
 正綱の嫡子忠勝が、将監の称を最初に用いた。『向系図』によれば、忠勝は慶長二年(1597)より将軍秀忠に召され、同六年には相模国内において五百石を拝領し御召船奉行となった。元和三年二月には大坂陣の功績を讃えられ、父とは別に三千石を知行する身となり、寛永元年三月の父の死に伴ってその遺領を継承し、合わせて五千石を知行した。さらに同二年七月には六千六石六斗余という、旗本とはいえ破格な待遇をうけるに至った。忠勝は秀忠よりかなりの信頼を得ていたようで、向井家嫡流の中で六千石余を給ったのは忠勝のみであり、向井家代々の中でこの忠勝の時代が、最も華やかな時代であった。・2004年10月18日


■参考略系図
    


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