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森川氏
丸に酢漿草
(宇多源氏佐々木氏族)


 森川氏は佐々木六角氏の分かれという。佐々木定綱の孫に泰綱がおり、その孫時信が六角氏の嫡流となった。時信の兄弟宗綱は堀部彦三郎を名乗り、その後裔秀泰が森川三郎を名乗り森川氏の祖となったというのである。つまり堀部氏の一支族であった。定泰に至って、尾張国春日井郡比良郷に移住、子の宗氏は堀場与四郎と名乗り、尾張織田氏に属したようである。
 宗氏の子氏兼、ついで氏俊と続き氏俊は織田信秀に仕えていたという。永禄八年(1565)、氏俊は家康に仕え、母方の姓森川に改め森川金右衛門と称した。
 江戸時代に下総国生実一万石の祖となった重俊は氏俊の三男であり、慶長二年(1597)十一歳のとき、秀忠に近侍した。なお、重俊の兄氏信の家は森川宗家として、二千二百石の旗本として続いた。  重俊は慶長十四年、三千石を地行し、近習出頭人を務めたが、同十九年大久保忠隣の失脚に連座し、上野高崎酒井家にお預けの身となった。妻が忠隣の養女だったからである。その後、元和元年(1615)大坂夏の陣の軍功で赦免され、寛永四年、二度の加増により一万石を領し、下総生実藩主となった。このとき、奉行職の末席に列し、奉書に加判する。
 ところで重俊の甥に森川若狭というものがいた。重俊も美男であったとされるが、それに輪をかけた美少年で、秀忠の弟忠吉について、寵愛「ふたつなき物」であった。君側の子姓として羽振りも良かった。忠吉は関ヶ原の合戦での鉄砲傷がもとで若くして死んでしまった。世のたれもの目は若狭に向けられた。すなわち、寵愛をほしいままにした若狭がいち追い腹を切るのかが注目されたのである。ところが、若狭はいくらたっても腹を切らない、ばかりか、ついには逐電してしまった。
 聞いたのが、叔父重俊である、「なんたる卑怯者」と、重俊は箱根の関まで追っていったが、捕まえることはできなかった。若狭はその後京に住んで笹屋宗助と名を改め、寛文(1661〜)のころまで生きたという。  それとは対照的に重俊の進退は潔かった。将軍秀忠が死んだときのこと、秀忠が息をひきとったその夜、一門の人びとを自宅に呼び、別離の宴を開くと、払暁には従容として割腹自殺をして、秀忠に殉じたのであった。
 もっとも、これには自家の保全のために殉死したという説もある。重俊は将軍継嗣問題で、家光と忠長が争ったとき、忠長に荷担していた。家光期に多くの譜代大名が加増されたのに、森川家が加増されなかったのも。この故であるという。
 重俊のあとは嫡子重政が継ぎ、生実一万石を子孫に伝えた。



■参考略系図


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