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飯田氏
丸に一本竹*
(清和源氏満快流?)
*源平姓氏・家紋400大事典(1984/12/ 歴史読本臨時増刊所収:能坂利雄氏監修) に、満快流飯田氏の紋として記載あり。


 飯田氏は信濃国飯田荘を領した義基を祖とし、曾孫師貞の代に毛利時親に従って安芸に下向したと伝えられる。吉田荘のうち、山手・中馬・石浦の代官をつとめたという。
 飯田元親は、児玉元良の次男であったが、飯田家を相続し、永正十三年(1516)、山県郡有田における武田信繁との合戦に戦功を挙げ、大永三年(1523)、元就に宗家相続を要請した宿老十五名のうちの一人でもあった。
 元重は元親の弟。天文十一年(1542)、隆元より与一左衛門尉の官途を、元亀三年(1572)、輝元より伯耆守の受領を授けられた。兄の死後飯田家を相続し、天文十年の郡山籠城戦をはじめ、同二十三年の安芸明石口合戦などで活躍。弘治二年には、元就の命を受けて石見泉山城主佐波興連への急使も務めた。
 弘治三年九月、周防河内郷にて五貫、永禄四年(1561)三月同郷にて十貫、岩国にて五貫を隆元より宛行われている。
 毛利家中には、もう一家飯田氏があった。相模国鎌倉郡飯田荘を領した源頼信九代孫の信基を祖とし、先の飯田家とは別系にあたる。義武より以前の事については不明。
 飯田義武は、天文十九年(1550)隆元より七郎右衛門の官途を、永禄十一年(1586)輝元より越中守の受領を授けられる。毛利水軍の将として天文二十三年五月の安芸五日市、同年九月能見島周辺、翌年六月には広島湾上の海戦などに参陣し、厳島合戦では軍隊輸送・海上警備の任務を担当するなど、川内警固衆を率いて活躍した。また、厳島合戦の直前にあたる天文二十三年七月には、毛利水軍の基地として設定された佐東軍の佐東川口にある牛田のうちで十五貫の給地を警固料として宛行われている。
 このほか、永禄四年(1561)豊前沖、天正四年(1576)には織田軍に包囲された大坂本願寺に派遣され、その賞として二十貫を輝元より宛行われた。


■参考略系図
    


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