源義家流河内源氏の裔。源義家の子義時の子義基が、河内国石川郡石川荘を領して石川氏を称したのに始まる。義基五世の孫義忠は、下野国小山氏に預け置かれた。その孫朝成は外祖父小山高朝に養われて小山氏を称した。その曽孫政康は本願寺蓮如上人に従って三河小河城に移り石川氏に復した。石川氏は当時、浄土真宗本願寺門徒の有力者であった。 政康の子親康は松平親忠の家臣となり、以後代々松平氏に仕えた。曽孫清兼は、清康・広忠に仕え松平宗家の家老筆頭となる。清兼の嫡子が家成で西三河の旗頭となる。これには三河一向一揆で家康方に付いたこと、家成の母が家康の母と姉妹であったことなどで信任されたのであろう。 徳川氏の遠江入部のとき、家成は掛川城主となり、天正八年(1580)引退した。嫡子康通は関東入国後、上総国成戸で二万石、のち大垣城で五万石を領した。子孫は伊勢国亀山で六万石に出世している。 家康の重臣で秀吉のもとに出奔したのが数正で、数正は清兼の嫡男であったが別家となった康正の子として生まれた。数正は今川氏の人質となった家康付属の臣の随一であったという。家康の岡崎還城後、家康側近の武将として活躍し、家康と信長の講和の際も重用な役割を果たした。 数正の最大の功績は、今川氏真のもとに人質にとられていた家康の嫡男信康を奪回したことであろう。これはすでに捕虜にしていた今川氏重臣の鵜殿長照の子との交換条件であったにしろ、決死の任務であったことは間違いない。 その後、掛川城主となった家成に代わって、西三河の旗頭をなった。小牧・長久手の戦後、突然出奔し秀吉に臣属し、のち信濃国松本城で八万石を領した。嫡子康長のとき、大久保長安事件に関係して家は断絶した。 ■参考略系図 |