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目賀田氏
●三つ杏葉
●藤原姓
 


 目賀田氏は、中世の近江に生きた武家で、近江守護佐々木六角氏の重臣のひとりとして勢力を誇った。その出自に関しては、一条天皇の御宇(986〜1011)、藤原道綱の次男中将道忠が京から近江に移り目賀田山を拓いて住した。そして、道忠ののち道信、信忠と続き、信忠がはじめて目賀田を称したことに始まるという。
 一方、湖東地方を流れる宇曽川流域にある藤原氏の庄園である八木郷の庄官として赴任した藤原某の後裔とする説もある。庄官藤原氏は在地支配者として代々勢力をたくわえ次第に武士化、鎌倉時代の中ごろに目賀田山を拓いて館を構え目賀田氏を称したと伝えられる。武士の発祥という点から考えれば、庄官説の方がうなづけるところがあるといえようか。
 いずれにしろ、目賀田氏の正確な系図は伝わっていないため、その発祥に関しては不詳というしかない。

目賀田氏の登場

 目賀田氏が史上にあらわれるのは鎌倉時代末期から南北朝時代はじめにかけてのことで、比牟礼八幡の神主に補された目賀田五郎兵衛信職・同五郎兵衛信音父子、二郎左衛門信良らの名が散見する。いずれも鎌倉幕府の御家人であり、目賀田氏がひとかどの武士であったことが知られる。五郎兵衛信職(入道玄向)は元弘三年(1333)、足利尊氏の六波羅攻めに従軍して戦功があった。
 その後、建武の新政、南北朝の動乱へと時代が動くと、目賀田氏は足利氏に属して各地を転戦した。それらの戦功により文和元年(1352)、坂田郡福能部庄切田の地頭職に補されている。また、貞治六年(1367)に玄向は将軍足利義詮からの命を受け、佐々木京極道誉に竹生島に乱入する者を取り締まるように伝えている。信職のあと目賀田城主となった信音は近江守護代に任じられ、禁裏の警護役を務めたことが知られる。
 ところで佐々木氏は鎌倉時代より近江守護職を世襲したが、のちに宗家は六角と京極の二家に分かれ、六角氏は江南を京極氏は江北を領してたがいに覇を争った。目賀田氏も数家に分かれていたようで、佐々木六角氏頼の旗頭に目賀田城主摂津守秀保の名がみえ、秀保は六角氏四天王の随一であったという。一方、佐々木京極道誉の麾下に目賀田弾正左衛門、同弾正忠信良がみえる。
 おそらく南北朝期における目賀田氏の宗家は近江国御家人として足利氏に直属しながら守護佐々木氏と協調、庶子や一族は両佐々木氏に分かれて仕えたものであろう。ところで、明徳三年(1392)に京都相国寺供養が行われ、諸国の大名が参列した。近江守護佐々木氏も参列したが、その中に目賀田六左衛門尉頼景、目賀田次郎左衛門源武遠の名がみえる。このことから、目賀田氏は藤原姓のほかに源姓を称する家があったことが知られるが、それぞれの系譜関係は分からない。

六角氏の重臣に列す

 明徳三年、南北朝の合一がなり半世紀にわたった南北朝の動乱に終止符が打たれた。かくして室町幕府体制が確立されたが、関東に永享の乱、京で嘉吉の乱が起こり、幕府体制はおおきく動揺を続けた。そして、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発、世の中は下剋上が横行する戦国乱世となった。その間、目賀田氏の動向はまったく不明であるが、六角氏の被官に組み込まれていったようだ。また、十五世紀後半に成立した『見聞諸家紋』には目賀田氏の幕紋が収録されており、相応の活躍をしていたことは疑いない。
 十六世紀、六角定頼の六家老のひとりに目賀田摂津守綱清がみえ、その威を遠近に振るわした。天文六年(1537)、綱清の子と思われる次郎左衛門尉忠朝が六角義賢の命で、愛知川の村民に対して日触神社(比牟礼社)の守護札を近江国内に頒布することを許可する旨の伝達をしている。当時の諸記録には釆女正氏秀・相模守長俊・備中守貞房・摂津守秀実らの名がみえ、目賀田一族が六角氏家中に大きな勢力をもっていたことがうかがわれる。
 六角定頼は管領細川氏の内訌に介入して中央政治に進出、京極氏の被官から北近江の強豪に成長した浅井氏を討伐するなど、佐々木六角氏の全盛期を築き上げた。定頼のあとを継いだ義賢の時代になると浅井長政が台頭、永禄二年(1559)、義賢は江北に兵を進め佐和山城を包囲した。さらに、浅井氏に転じた高野瀬氏の拠る肥田城を水攻めしたが失敗、翌年、ふたたび肥田城を攻撃した。かくして、六角勢と浅井長政率いる援軍との間で野良田合戦が行われ、大軍を擁した六角勢の敗北となった。この陣に目賀田氏も出陣したと思われるが、確かな資料からは確認できない。
 野良田合戦ののち六角氏の威勢にも翳りが見えるようになったが、ときの目賀田氏の当主貞政は重臣のひとりとして六角氏に忠節を尽くしていた。ところが、永禄六年、義賢の嫡男義弼(義治)が重臣のひとりである後藤父子を謀殺するという愚挙をなした。この事件に反発した重臣たちは観音寺城内の邸を焼き、それぞれ所領に引き揚げていった。とくに後藤氏の親戚であった貞政は、浅井氏に通じて六角氏に反旗を翻した。事態を恐れた義賢(承禎)・義弼父子は観音寺城を捨て、三雲・蒲生氏を頼り落ちのびた。観音寺騒動と称されるこの事件は、戦国大名六角氏の勢力を大きく後退させる結果となった。・2007年05月09日→2008年03月26日
 
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目賀田城から安土へ





戦国末期、目賀田氏が拠った目賀田城。典型的な平城で、わずかに残る土塁のなかに小さな公園が整備されている。北門祉に目賀田城址の碑と説明板が建立されていたが、四十三代堅綱が堅政と誤記されていたのが残念。城址のある集落の外れに目賀田氏が勧請したという春日神社があるが、目賀田氏との関係を語るものはなかった。目賀田城址をあとに、目賀田氏発祥の地である安土を訪ねる。菜の花畑の向こうに、天下統一を目前に横死した織田信長の安土城址が春靄に霞んでいた。観音寺城址に登ると、観音正寺の東方に目賀田氏の曲輪跡が残っている。[右下の2点は、安土でのスナップ]



戦国時代の終焉

 永禄十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛軍を起こした。信長は六角承禎に協力を要請したが、承禎はこれを拒絶したため、信長軍の攻撃を受けて観音寺城は陥落、六角氏は没落した。目賀田貞政は浅井氏に属したが、浅井氏は越前朝倉氏と結び信長と対立して天正元年(1573)に滅亡、貞政は嫡男の堅綱とともに信長の麾下となり旧領を安堵された。
 畿内を平定した信長は近江に築城を計画、白羽の矢を立てられたのが目賀田氏が拠る目賀田山であった。天正四年(1576)、貞政は目賀田山明け渡しの命を受け、所領のひとつである光明寺野に移住すると新たに目賀田城を築き、春日神社を勧進した。これが現在残る目賀田城址で、光明寺野も目加田と呼ばれるようになった。ときに、目賀田氏の所領は二万石であったという。一方、目賀田山に築かれた信長の新城が安土城と称されたことはいうまでもないだろう。
 貞政の嫡男堅綱は六角氏との戦いに戦死し、嫡孫の堅政が目賀田城主を継いだ。天正十年、徳川家康が安土城を訪問したとき、堅政は信長の命によって家康一行を番場宿で饗応し、家康の入京から堺見物にも随従した。そのとき本能寺の変が起こり、家康は伊賀越で近江に出て三河に逃げ帰った。家康は堅政に三河行きを進めたが、堅政は近江に留まる道を選び、明智光秀に従って山崎の合戦に出陣、敗残の身となった。その結果、所領は没収されて一族は離散、堅政は剃髪すると備中に流浪して生涯を閉じたという。
 堅政の子守成は水野忠重の孫娘を室としていた関係から、備後福山藩水野氏の庇護を受け、その子守政は紀州徳川家に仕えた。紀州吉宗が八代将軍に迎えられたとき、守政の子守咸は吉宗に随行して江戸に移り、目賀田長門守を称して側近に仕えた。かくして、目賀田氏は徳川将軍家の旗本となり、子孫、家名を継いで明治維新に至った。 ・2007年05月09日

参考資料:目賀田氏考/近江源氏の系譜 ほか】


■参考略系図
・目賀田氏の網羅的な系図は伝来していない。『古代氏族系譜集成』『目賀田氏考』などの記述などから作成。
 


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