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松倉氏
九 曜
(藤原姓/橘姓とも)


 松倉氏の祖は、藤原姓あるいは橘姓ともいわれ、もと越中の人で嘉吉年間に大和添上郡横田に在って筒井氏に仕えたという。また、筒井順興の子弥七郎秀政が、松倉弥七郎と称し、島左近・森好之とともに筒井三家老と呼ばれたとする説もあるが不明。
 『筒井順慶葬式帳』には、松倉右近を筒井三家老としている。天正十三年(1585)筒井順慶の養子定次が大和から伊賀に移ったとき、名張郡・名張城主として八千余石を与えられている。古城のため、松倉父子が縄張りして改築したという。『多聞院日記』にも天正十一年、筒井の大名として松倉弥八郎越智三千石とみえる。
 重政は定次に仕えて梁瀬城(名張城)に在ったが、のち、豊臣秀吉に仕えたという。『太閣配分帳』には、慶長二年、大和吉野郡五條八千石余を与えられたとある。『慶長和州高付帳』に、松倉豊後守(重政)七百五十一石、二見村とあり、伊勢二見城にも居城したとみられる。
 重政は慶長五年(1600)上杉景勝征伐に際しては筒井定次のもとで徳川方として出陣、ついで、関ヶ原の合戦では、筒井定次と東軍に従い、本多正武と美濃国を守った。決戦では井伊直政の手に属して軍功があったという。慶長十三年、筒井定次が没封になると、重政も一時領地を失ったが、それまでの軍功によって、大和吉野郡五條の地一万石を安堵されている。
 ついで、慶長十九年の大坂冬の陣には大和勢として藤堂高虎に従い、夏の陣には大坂方の兵が大和郡山城を攻めるにおよんで重政は大坂方の軍兵を追撃するなどの戦功をあげた。大坂両陣の軍功により、元和二年(1616)、肥前高来郡日之江城四万石を得た。寛永七年(1630)、呂宋国・高山国(台湾)との交易を志し、遠征計画を立てたが、志なかばで没した。
 跡は養子の勝家が継いだが、寛永十四年、領内有馬古城の原城で起こったキリスト教信徒の反乱に対処するため、江戸から帰って板倉重政に属し先鋒となった。しかし、鎮圧が長引き、幕府はときの老中松平信綱を派遣してようやく平定した。戦後、勝家は一揆勃発の攻めと父重政以来のキリシタン弾圧、領国経営の落度のため、所領没収、美作国津山森氏に預けられ死罪となった。


■参考略系図






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