神戸市北区にある道場町は摂津・丹波・播磨三国の接点に位置し、古くから栄えた所で、江戸時代には生瀬から三田を通る大坂街道と、淡河からの湯乃山街道が合流する宿場町として賑わった。道場町の中心部を流れる有馬川の支流有野川が分かれた所の小山に、「蒲公英城」という可愛らしい名前を持った城跡がある。 南北朝の争乱期に足利尊氏に味方して播磨守護職となった赤松円心の四男氏範は、加古郡・印南郡・明石郡・有馬郡を領有して三田城に拠った。円心は元弘の変後の動乱において後醍醐天皇に味方して活躍したが、建武の新政における恩賞への不満から、足利尊氏が謀叛を起すとそれに味方した。しかし、ひとり氏範は父円心や兄則祐らが武家方=北朝として行動するのに対して、最後まで南朝方として行動したのである。 氏範は領内に諸城を築いて一族・郎党を配したが、道場川原に築かれたのが蒲公英城であった。そして、氏範の嫡男氏春が城主となった。以後、氏範と一族は南朝方として活躍したが、永徳三年(1386)、加東郡の播磨清水寺で北朝方と戦い、敗れて一族とともに自刃した。このとき、蒲公英城主氏春も父に殉じ、蒲公英城は落城した。 松原氏の登場 蒲公英城がふたたび歴史にあらわれるのは、応仁の乱以後のことである。播磨守護赤松氏は、四代満祐が将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱によって没落した。その後、赤松氏を再興した政則は、応仁の乱に際して、東軍細川勝元に味方して播磨回復を狙い、山名氏と合戦を繰り広げた。このとき、政則に従った赤松一族・諸将のなかに、松原越前守貞基がいた。 「松原氏系図」によれば、貞基は満祐の弟祐之の子で、母は赤松貞村の娘という赤松一族の名門の出自となっているが、満祐の弟に祐之なる人物は見えない。系図の所伝によれば、貞基は姫路・明石・白旗などの戦いにおいて活躍、山名氏が播磨から撤収したのち、政則から蒲公英城を賜り有野荘・生瀬荘を領したという。松原氏が城主になったことで、蒲公英城は松原城とも称されるようになった。貞基ののち、松原氏は義貞−家久−家長−義富と続き、有馬郡の豪族に成長していったのである。 その間、松原氏を取巻く環境は安穏としたものではなく、応仁の乱後の乱世に文字通り翻弄された。応仁の乱後、将軍の権威は失墜し、管領細川氏が権勢を恣にした。ところが、永正四年(1507)、ときの管領細川政元が家臣に暗殺されるという事件が起った。その背景には、管領細川氏の家督争いがあり、澄之派と澄元派に分裂して合戦沙汰となった。以後、細川氏は宗家の家督をめぐって対立が続き、その影響は周辺の諸豪族にまでおよんだ。 永正八年(1511)、将軍足利義稙を奉じた細川高国と大内義興の連合軍と、前将軍足利義澄を奉じる細川澄元・三好之長の連合軍とが京都船岡山で激突した。この戦いに義貞は細川高国方として参加、細川政賢と戦い討死した。戦いは義稙方の勝利に終わり、以後、高国主導による政治が続いた。一方、政則のあとを継いで播磨守護となった赤松義村は重臣浦上村宗と対立、ついには武力衝突を引き起こしたが、義村は村宗によって殺害されてしまった。文字通りの下剋上で、村宗は幼い義村の子晴政を傀儡に立てて備前・美作・西播磨の実権を掌握したのである。 戦乱に翻弄される 浦上氏の台頭に対して、三木の別所氏、御着の小寺氏らは晴政を守り立てて対立姿勢を示した。義貞の子家久も別所氏らに同調したようだ。やがて、細川高国が失脚し、諸国を流浪した高国は浦上村宗を頼った。高国を受け入れた村宗は、享禄三年(1530)、高国と対立する細川晴元に味方する播磨の諸城を攻撃した。このとき、家久は村宗勢に抵抗したが、武運つたなく戦死をとげた。播磨・摂津の晴元方の諸城を攻略した村宗勢は、その勢いを駆って、晴元=三好・阿波勢と対峙した。 享禄四年、天王寺において村宗勢と晴元方とが激突、その背後を赤松方がついたことで、村宗は討死、高国も自刃した。ここに赤松晴政が権勢を取り戻したかに見えたが、天文七年(1538)、出雲の戦国大名尼子氏が播磨に侵攻してきたのである。長水山城主宇野氏らが尼子氏に通じたため、晴政は置塩城から脱出する事態となった。松原家長は晴政に味方して尼子方と戦い、よく武功をあげたという。 高国を倒したのち細川晴元が管領職について幕府の実権を掌握したが、やがて三好長慶との対立を深めていった。そして、天文十八年(1549)、晴元は長慶に味方する摂津三宅城を攻撃した。この戦いに、家長も晴元方として参戦、功績をあげたという。松原氏は打ち続く合戦のなかに身を置いて、よく松原城とその所領を守り通したのであった。 永禄三年(1560)、松原氏の最後の当主となった山城守義富(左近大夫貞利か)が松原城主となった。この年、戦国史上に特筆される事件が起った。尾張の織田信長が駿河・遠江の大大名今川義元を桶狭間において討ち取ったのである。以後、信長の大躍進が続き、群雄割拠する時代は過ぎつつあった。そして、永禄十一年、信長は足利義昭を奉じて上洛、義昭が征夷大将軍に任官した。 |
●蒲公英城 |
・左:道場駅から見る ・中:深い空壕 ・右:有野川を隔てて見る
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