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松原氏
●丸に二つ引両*
●村上源氏赤松氏流  
*ご子孫の方から現在使用されている家紋として、ご連絡をいただきました。  


 神戸市北区にある道場町は摂津・丹波・播磨三国の接点に位置し、古くから栄えた所で、江戸時代には生瀬から三田を通る大坂街道と、淡河からの湯乃山街道が合流する宿場町として賑わった。道場町の中心部を流れる有馬川の支流有野川が分かれた所の小山に、「蒲公英城」という可愛らしい名前を持った城跡がある。
 南北朝の争乱期に足利尊氏に味方して播磨守護職となった赤松円心の四男氏範は、加古郡・印南郡・明石郡・有馬郡を領有して三田城に拠った。円心は元弘の変後の動乱において後醍醐天皇に味方して活躍したが、建武の新政における恩賞への不満から、足利尊氏が謀叛を起すとそれに味方した。しかし、ひとり氏範は父円心や兄則祐らが武家方=北朝として行動するのに対して、最後まで南朝方として行動したのである。
 氏範は領内に諸城を築いて一族・郎党を配したが、道場川原に築かれたのが蒲公英城であった。そして、氏範の嫡男氏春が城主となった。以後、氏範と一族は南朝方として活躍したが、永徳三年(1386)、加東郡の播磨清水寺で北朝方と戦い、敗れて一族とともに自刃した。このとき、蒲公英城主氏春も父に殉じ、蒲公英城は落城した。

松原氏の登場

 蒲公英城がふたたび歴史にあらわれるのは、応仁の乱以後のことである。播磨守護赤松氏は、四代満祐が将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱によって没落した。その後、赤松氏を再興した政則は、応仁の乱に際して、東軍細川勝元に味方して播磨回復を狙い、山名氏と合戦を繰り広げた。このとき、政則に従った赤松一族・諸将のなかに、松原越前守貞基がいた。
 「松原氏系図」によれば、貞基は満祐の弟祐之の子で、母は赤松貞村の娘という赤松一族の名門の出自となっているが、満祐の弟に祐之なる人物は見えない。系図の所伝によれば、貞基は姫路・明石・白旗などの戦いにおいて活躍、山名氏が播磨から撤収したのち、政則から蒲公英城を賜り有野荘・生瀬荘を領したという。松原氏が城主になったことで、蒲公英城は松原城とも称されるようになった。貞基ののち、松原氏は義貞−家久−家長−義富と続き、有馬郡の豪族に成長していったのである。
 その間、松原氏を取巻く環境は安穏としたものではなく、応仁の乱後の乱世に文字通り翻弄された。応仁の乱後、将軍の権威は失墜し、管領細川氏が権勢を恣にした。ところが、永正四年(1507)、ときの管領細川政元が家臣に暗殺されるという事件が起った。その背景には、管領細川氏の家督争いがあり、澄之派と澄元派に分裂して合戦沙汰となった。以後、細川氏は宗家の家督をめぐって対立が続き、その影響は周辺の諸豪族にまでおよんだ。
 永正八年(1511)、将軍足利義稙を奉じた細川高国と大内義興の連合軍と、前将軍足利義澄を奉じる細川澄元・三好之長の連合軍とが京都船岡山で激突した。この戦いに義貞は細川高国方として参加、細川政賢と戦い討死した。戦いは義稙方の勝利に終わり、以後、高国主導による政治が続いた。一方、政則のあとを継いで播磨守護となった赤松義村は重臣浦上村宗と対立、ついには武力衝突を引き起こしたが、義村は村宗によって殺害されてしまった。文字通りの下剋上で、村宗は幼い義村の子晴政を傀儡に立てて備前・美作・西播磨の実権を掌握したのである。

戦乱に翻弄される

 浦上氏の台頭に対して、三木の別所氏、御着の小寺氏らは晴政を守り立てて対立姿勢を示した。義貞の子家久も別所氏らに同調したようだ。やがて、細川高国が失脚し、諸国を流浪した高国は浦上村宗を頼った。高国を受け入れた村宗は、享禄三年(1530)、高国と対立する細川晴元に味方する播磨の諸城を攻撃した。このとき、家久は村宗勢に抵抗したが、武運つたなく戦死をとげた。播磨・摂津の晴元方の諸城を攻略した村宗勢は、その勢いを駆って、晴元=三好・阿波勢と対峙した。
 享禄四年、天王寺において村宗勢と晴元方とが激突、その背後を赤松方がついたことで、村宗は討死、高国も自刃した。ここに赤松晴政が権勢を取り戻したかに見えたが、天文七年(1538)、出雲の戦国大名尼子氏が播磨に侵攻してきたのである。長水山城主宇野氏らが尼子氏に通じたため、晴政は置塩城から脱出する事態となった。松原家長は晴政に味方して尼子方と戦い、よく武功をあげたという。
 高国を倒したのち細川晴元が管領職について幕府の実権を掌握したが、やがて三好長慶との対立を深めていった。そして、天文十八年(1549)、晴元は長慶に味方する摂津三宅城を攻撃した。この戦いに、家長も晴元方として参戦、功績をあげたという。松原氏は打ち続く合戦のなかに身を置いて、よく松原城とその所領を守り通したのであった。
 永禄三年(1560)、松原氏の最後の当主となった山城守義富(左近大夫貞利か)が松原城主となった。この年、戦国史上に特筆される事件が起った。尾張の織田信長が駿河・遠江の大大名今川義元を桶狭間において討ち取ったのである。以後、信長の大躍進が続き、群雄割拠する時代は過ぎつつあった。そして、永禄十一年、信長は足利義昭を奉じて上洛、義昭が征夷大将軍に任官した。

 
●蒲公英城  

:道場駅から見る ・:深い空壕 ・:有野川を隔てて見る


松原氏の終焉

 京都を支配下においた信長は、着々と天下統一へと突き進んでいった。六角氏、朝倉氏、浅井氏らを次々と滅ぼした信長は、石山本願寺との戦いにのめり込んでいった。その間、義富は伊丹有岡城主荒木村重と戦い、三木城主の別所長治に協力したことが知られる。
 かくして、天正五年(1577)、信長は部将羽柴(豊臣)秀吉を大将に、播磨に兵を進めたのである。別所氏、小寺氏らはすみやかに織田軍に帰順したが、翌六年の春、三木城主別所長治が秀吉に反した。義富は別所長治に味方して、野口城の戦いでは別所方の大将のひとりとして活躍した。その後、松原城に嫡子の貞富とともに籠城、織田軍を迎え撃った。これに対して、秀吉は中川清秀、塩川国満、山崎家盛、池田輝政に松原城を包囲させた。
 『摂北有馬郡丹北城軍記』によれば、包囲軍の一斉攻撃によって、松原城は一戦に切り崩され、討たれるもの数知れずという有様になった。城主義富は城を脱出すると、尼が谷に入りそこで自害したという。一説には、義富は三木城に籠城し、三木城が落ちたあと北谷村に逃れ、そこで帰農したとするものもある。いずれにしても、織田軍の播磨侵攻に抵抗したものの、あっけなく敗れ去ったということである。
 蒲公英城主松原氏に関する記録としては、『摂北軍記』『松原軍記』『山崎記』などがあるが、いずれも後世に書かれた軍記物語であり、史実とは受け止め難いものばかりである。『三田市史』は『松原氏系図』の記述によって、松原氏の歴史を記しているが、松原氏系図そのものの史料性も未知数である。ちなみに、『松原軍記』によれば、松原氏の先祖は河内国松原の百姓で、もと楠木正成の家来であった。戦国時代に至って播州岩屋城に来て武将に仕え、やがて、北摂を攻め取り草下部(日下部)村に城を築いて松原越前守利広(家長)と名乗ったという。そして、利広の子が松原右近大夫貞利で、秀吉勢と戦い討死したという。
 いずれが真実を伝えているのかを見極めるのは難しいが、いまも、蒲公英城跡が道場の地に存在していることだけは紛れもないことである。

蒲公英城の由来

 さて「蒲公英」の名の由来である。『摂津名所図絵』によれば、「松原城下に山河の流れあり、岩にせかれて落ちる水、鼓の鳴に似たりとて、ときの人たんほゝの城と云う」とある。他方、『摂北有馬郡丹北城軍記』では、松原貞利の奥方は淡河城主淡河弾正の娘で、美しい人であった。奥方は後ろの山から城内に水を引き入れ、掘抜き井戸に落ちるように仕掛け、その音が「たんぽん」と鳴ったので「たんぽんの城」と呼ばれるようになったと記されている。さらに、地元の伝承では、松原城に鼓の上手な姫がいて、毎夜、ぽんぽんと美しい鼓の音を聞かせたため、たんぽぽの城と呼ぶようになったという。
 いずれも可愛い話ばかりだが、落城したのちの蒲公英城は、しばらく秀吉の兵站基地となっていたようだ。やがて、道場が有馬氏の所領となると蒲公英城は廃城となった。・2006年3月29日

参考資料:三田市史/ひょうごの城紀行 など】


■参考略系図
 
  


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