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前田(玄以)氏

(利仁流斎藤氏支族)


    玄以をだした前田氏は、藤原利仁流、斎宮頭叙用の後胤斎藤季基が美濃国安八郡前田に住み、家号にしたという。ただし、これも家譜だけで確証はない。
 玄以は初名孫十郎基勝といったというが、史料には、はじめから僧名で登場する。前身は尾張小松寺の住職であったともいう。天正12年(1584)、民部卿法印に叙されてからこれが通称となり、のち徳善院僧正の称号も受けている。
 玄以は、はじめ織田信忠に仕えた。本能寺の変に際しては、信忠いる二条城から嫡子三法師(秀信)を救出し、清洲城に送り届けた。この三法師が、清洲会議の結果のとおり信長の跡を継承していたなら、玄以は再興織田家最大の功労者となったところだが、むろん歴史はそのように動かなかった。
 天正11年、玄以は織田信雄から京都奉行職に任じられ、そのまま豊臣政権下の京都所司代となった。秀吉晩年には五奉行の一人となり、とくに京都の庶政や寺社関係で手腕を発揮した。所領は天正13年丹波で五万石を与えられ、亀山城主となった。
 関ヶ原の役には西軍に立たざるを得ず、大坂城の留守居をつとめた。しかし、主戦派ではなく、戦後の追及はまぬかれ、亀山五万石は嫡子茂勝に安堵された。
 茂勝はクリスチャンで、受洗名はコンスタンチという。関ヶ原の戦の際には、丹後田辺城攻撃に参加した。あるいは、和議をすすめる勅使に同行したともいう。茂勝はのちに丹波八上城に移封された。関ヶ原の戦を越えて維持した所領であったが、慶長13年(1608)狂気によって改易されてしまった。庶流家が旗本として家を伝えた。



■参考略系図


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