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三吉鼓氏
丸に吉字
(宇多源氏佐々木氏流)


 治承四年(1180)源頼朝の旗揚げにあたって、佐々木秀義はその子定綱・経高・盛綱・高綱・義清ら子息とともにこれを助けた。その後の平家との戦いで、佐々木兄弟が活躍したことは世に知られている。なかでも四男高綱は、梶原景高との宇治川における先陣争いで名が高い。鎌倉幕府の成立後、佐々木氏は兄弟・一門を合わせて十七ケ国の守護となった。
 ところで、秀義には先の兄弟以外にも数人の男子があったとされる。そのうちの一人が、備後国三吉郡の地頭職に補されて比恵尾山城を築き、三吉氏を称したという。それが、「三吉鼓系図」にみえる佐々木七郎秀綱である。しかし、秀綱の名は『尊卑分脈』に記された佐々木秀義の子のなかには見えない。
 鼓系図によれば秀綱の子は秀方で、承久三年(1221)。承久の乱において宮方となって出陣、京都で討死した。このとき、秀方は「吉字」をもって旗紋としたと伝えられ、以後、「吉字」が三吉鼓氏の家紋となった。承久の乱後、三吉鼓氏の所領は没収され、高元は備後国児島に隠れた。

乱世を生きる

 その後、鎌倉幕府が滅び建武の中興が成った。ところが、後醍醐天皇と足利尊氏との間に不和が生じ、足利尊氏は宮方との戦いに敗れて九州に落ちていった。尊氏は九州で巻き返しを図り、建武三年(1336)軍勢を率い、京を目指して攻め上ってきた。五月、尊氏軍を迎え撃つ宮方は、楠木正成を将として摂津国湊川に陣を布いた。この合戦で三吉秀清は尊氏の軍に属して奮戦、功を挙げ、その賞として備後国重永村の地頭職を得た。秀清は武家方として各地で戦い、文和四年(1355)、東寺の合戦で戦死している。
 秀清の子は系図に、秀任・覚弁と秀盛の三子がみえ、覚弁は康永二年(1343)四月の備後国目崎城攻めに従軍して功を挙げ、泉村の地頭職に補されている。家督は三男の秀盛が継ぎ、兄覚弁の死後その所領も併せて備後国安那郡竹田村の地頭職を与えられた。秀盛は鼓ケ岡に城を築き、同城に居住、地名に因って鼓を号した。
 秀信の時代が応仁の乱にあたり、武功を挙げたことが系図にみえる。この頃、三吉鼓氏は大内氏に属していたようで、永正五年(1508)、大内氏のもとに身を寄せていた、足利義稙は大内義興の支援で京に戻ることとなった。この上洛に際して、秀守は大内氏からの催促を受けて人数に加わり、同八年八月、京の船岡山合戦で秀守は討死した。その子秀成は父の戦死後、大内義興に属し、義興死後は義隆に属した。天文二十年(1541)、陶氏の謀叛で義隆は自害、大内氏は滅亡する。
 その後三吉鼓氏は、毛利元就に随がって、各地に戦い功を挙げている。以後、毛利氏に属していたが、慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦で毛利氏が没落、備後国から長州萩に移封されるにあたり、毛利氏を辞して浪人した。子孫は武士を捨てて帰農したと伝えられる。


■参考略系図
 


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