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三河鈴木氏
抱き稲
(穂積氏流)


    三河鈴木氏の祖といわれる善阿弥、すなわち鈴木平内大夫重善に関しては様々な伝承がある。それを要約すれば、
 「紀州鈴木37代、鈴木重善は源義経への志が深く、義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経に従っていた兄弟の鈴木重家、亀井重清の後を追い、文治五年(1189)奥州に向かった。三河矢作まできたとき、足を痛め、数日逗留している間に義経をはじめ、重家・重清も討死にしたと聞き、奥州行きをあきらめ、この地に永住の地を求めた。」
 矢並には善阿弥屋敷と呼ばれる小高い屋敷跡があり、その一角には善阿弥ゆかりの井戸が残っている。しかし、善阿弥を義経と結びつける伝承には疑問が残っている。すなわち、猿投神社文書にある「矢並郷平内大夫入道善阿」は南北朝時代の人である。南北朝初期の金谷城主中条秀長の命を受け、猿投神社の神宮寺の造営に活躍したことが記録に残されたのである。いずれにせよ善阿弥は鎌倉末期から南北朝時代に矢並を拠点として活躍した人物となろう。

乱世を生きる

 その後、中条氏の被官衆のひとりとして有力な国人衆として成長、豊田・加茂一帯を勢力圏とした。矢並を拠点として、市木から寺部へ、酒呑から足助、さらに小原へと高橋荘東方を中心に勢力を広げていった。また、鈴木重勝の娘は松平四代親忠に嫁いだという記録もあり、松平氏との関係を深めた時期もあったようだ。逆に、寺部に進出した鈴木氏は松平氏と抗争を繰り返した時期もあった。
 永禄七年(1564)、家康は足助鈴木重直の拠る真弓山城を攻撃した。重直は嫡子信重を人質に差し出し、家康に降伏した。以後、鈴木氏は松平軍団に編入され、信長・家康が朝倉・浅井連合軍と戦った「姉川の合戦」など大小の合戦に従軍している。
 元亀二年(1571)、上洛をめざした武田信玄は子の勝頼とともに二万五千の兵を率いて伊那の高遠を進発し三河に攻め込んだ。そして真弓山城の攻撃が行われ、城主重直は信玄の大軍にかなわず城を捨て岡崎に逃げた。真弓山城の落城とともに、鈴木氏の勢力下にあった主周辺の小城も落城した。足助周辺は信玄の支配下に入った。
 翌三年、信玄は再度上洛軍を起し、家康を「三方ケ原」で一蹴し、京都をめざして進軍したが、四年その途上で病没した。信玄没後間もなく、岡崎信康は武田方の籠る真弓山城を攻撃し、武田氏を追放した。家康は真弓山城を旧城主であった鈴木重直に守らせ、足助地方は再び鈴木氏の領有するところとなった。しかし、以前とは違って、松平氏の家臣としての領有であった。鈴木氏はこうして徳川氏の家臣に組み込まれてしまったのである。以後、数家に分かれた鈴木氏は徳川旗本家として存続していった。


■参考略系図
 

Ver.1 系図


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