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志道氏
蛇の目
(毛利氏族坂氏庶流)


 志道氏は、安芸毛利氏の一族である。毛利弘元の時代に執権をつとめた坂広秋の四男元良が、安芸国高田郡志道村に居住して志道氏を称したことに始まる。
 室町時代初期の毛利氏の惣領は、応永の安芸国人一揆においてリーダー的役割を果たした毛利光房であった。光房は幕府からもその立場を認められて、右馬頭に任じられていた。しかし、毛利一族内における光房の立場は必ずしも安定したものではなかった。当時、毛利氏の庶家としては、麻原氏・坂氏・福原氏・中馬氏らがおり、庶家の所領を併せると毛利一族の七十五%を占めていた。しかも、惣領家と庶家筆頭の麻原氏との所領の差は、わずかなものであった。さらに、麻原氏・坂氏らの有力庶家は、国人一揆契状には加わっていなかった。
 応永二十五年(1418)ごろ、毛利氏惣領家と庶家との間の対立が激化した。在京していた光房は福原広世に誓紙を送り、嫡子小法師(熈房)の支援を頼んでいる。ほどなく、吉田城は庶家の攻撃を受け、福原広世の救援でこれを撃退することができた。毛利氏における惣領家と庶家の紛争は、ひとつは惣庶間における所領問題があり、ふたつは「公役」の徴集に関する問題があった。
 この毛利氏の内訌に際して、近隣の平賀氏・宍戸氏・高橋氏らの国人が調停に立ち、新たに毛利氏の惣領となった熈房とその後援者である福原広世と、他の庶家との間で一応の和解がなった。そして、三人の国人は和解の契状において惣領家と庶家のいずれが違乱をなそうとも、他の一方に味方することを明言している。当時、第三者が紛争を仲裁するという作法がうかがえる。

毛利惣領家の勢力拡大

 宝徳三年(1451)熈元(熈房改め)は嫡子豊元への譲状のなかで、「公役」の徴集に当たって、「一家中(庶家)」の中で拒否するものがあれば、幕府に訴えその所領を惣領豊元に付けるべきこと。ついで、公役をつとめない庶家は「書違」の趣旨に従い、惣領方が成敗すべきこと。と惣領権の範囲を書き上げている。「書違」とは、公役の徴集に関して、惣領家と庶家とが起請文を取り交わしたことをいう。
 公役徴集権をもっていた惣領家は、幕府の奉公衆に準じた立場にあり、公役を幕府から直接賦課された。この惣領家の公役徴集権は鎌倉時代以来の惣領の庶家に対する軍事指揮権にちなむものと考えられ、庶家もまた、幕府からその存立が安堵されている以上、幕府権力を背景とした惣領家の公役の賦課に従わざるをえなかった。そして、惣領家と庶家の対立が深まると、その必然として惣領家は幕府との結びつきを強めることになったのである。
 惣領家に匹敵する所領を有した麻原氏は、早くから幕府に直接働きかけて、惣領家の傘下から離れようとしていた。そのことが、「書違」の趣旨にふれるとして、毛利豊元は長禄四年(1460)麻原氏の所領を没収し、その安堵を幕府に申請した。ところが麻原氏の旧領は、伊勢氏に宛行われてしまい、豊元はたびたび幕府に訴えたが解決には至らなかった。その後、応仁の乱における活躍によって、麻原氏の旧領を実質的に支配下におくことができ、惣領豊元は庶家に対する支配権を強化することになった。
 毛利氏の庶家のなかで最大の勢力であった麻原氏が滅亡したことで、坂氏が毛利氏一家中で最有力の庶家となった。そして、坂家は応仁・文明の乱の前後より、毛利氏惣領家の執権としての活動が始まっている。豊元の代には坂広秋、弘元の代には広秋の息子広明、興元の代から幸松丸、元就の代にかけては広明の甥志道広良が、それぞれ毛利氏の執権を務めた。

戦乱のなかの毛利氏

 毛利氏の執権として惣領家を支える立場となった坂氏であったが、それは、毛利氏の「家」に包含されることにもなった。坂氏は毛利氏の最有力庶家坂氏の惣領でありながら、毛利氏の「家」の支配権の代行をする執権の役割を果たすようになったことで、自立への途を失っていったのであった。 ●●●
 一方、毛利氏の惣領家は着実に権勢を確立していき、十六世紀のはじめには内藤氏、秋山氏ら「中郡衆」とよばれる近隣の国人らが毛利氏に帰属するようになった。一方、十五世紀末期ごろ、麻原氏の旧領は譜代家臣の粟屋氏の手で代官支配が行われ、執権の地位にある坂氏の本領も十六世紀には代官支配になった。いいかえれば、毛利氏惣領家は、有力庶家で毛利氏の執権もつとめる坂氏の本領までも処分できる強権を持つに至ったのである。
 戦国時代はじめの安芸国は一国を統べる勢力はなく、守護家武田氏をはじめ毛利・小早川・天野・吉川・平賀氏らの諸豪族が勢力を競い、そこに大内氏と尼子氏の勢力が侵出して、複雑な政治的様相を呈していた。
 毛利興元は大内氏の麾下にあって尼子氏方の勢力と対立、抗争を続けたが、永正十三年(1516)、幼い幸松丸を残して病死してしまった。幼い幸松丸を毛利元就が後見して、武田氏らの侵攻を撃退したが、大永三年(1523)、尼子経久の安芸侵攻に際して、ついに毛利氏は尼子氏の麾下に入った。ほどなく、幸松丸が死去したことで、毛利氏家中は協議して、毛利元就に家督相続を請うた。これは、執権志道広良が主導したもので、それに連署した十五名の重臣の中には、坂広秀もいた。
 かくして、元就が郡山城に入城して惣領家の当主となった。ところが、その後、坂某・渡辺勝らが尼子氏の重臣亀井秀綱らと謀って、元就を殺害し、元就の異母弟である相合元綱を当主に立てようとした。この計画を察知した元就はただちに首謀者を誅伐し、相合元綱も殺害した。坂某とは、前の執権坂広明とその子広秀と推測される。また、坂広明の兄で一族の桂家を継いだ桂広澄もの事件に連座して自殺している。
 坂氏にしてみれば、毛利氏の有力庶家であったものが、次第に毛利氏の家臣として位置付けらていくことに、少なからぬ不満を持っていたのでないか。元就にしてみれば、この事件をきっかけとしてうるさい庶家を討つことができたともいえよう。その後、坂氏は志道広良の子広昌が入り家名は存続した。

志道氏のその後

 さて、坂氏の一族志道元良の嫡男に生まれた広良は、毛利興元・幸松丸と元就前半期の執権をつとめ、長く毛利氏を支えて政務の中枢にいた。興元の執権を務めていた永正十年(1513)には、多治比の猿掛城にいた元就(17歳)から興元への奉公・忠節を誓わせる起請文をとりつけ、元就が若気のいたりで無理難題を申し懸けた時は、広良から意見をしてほしい旨を申し出させている。
 幸松丸が死去したのち、元就の毛利氏家督相続を実現し、晩年は元就の依頼を受けて隆元の補導に尽力し、水あっての船、家来あってこその大名ではないか、と家臣の立場から名将の心得などを説いたとされている。広良は嫡子(実名不詳)を早くに亡くし、そのあとは嫡孫の元保が継いだ。元保は志道村をはじめ安芸国有富兼次名、西条八名、周防国高尾村二百石、出雲国多久和三百貫などを知行し、安芸国中麻原代官を務めた。 子孫は、代々、萩藩「寄組」士として続いた。

【参考資料:向原町史/戦国大名家臣団事典/毛利元就のすべて など】


■参考略系図
    


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