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毛利(森)氏
丸に矢筈
(佐々木氏流/藤原氏)


 毛利氏は宇多源氏佐々木氏の一族である。すなわち、佐々木泰綱六代の後裔にあたる六角満綱の三男高久が、その祖とされる。高久は、三井乗定の婿養子となって、近江国鯰江に城を築いて住し、これより藤原氏となり鯰江を称した。鯰江氏は高久が明応二年(1493)に没して、以後尚政−義堯−定秀−定春と続く。尚昌は、はじめ高昌と称したが、足利九代将軍義尚に近侍して、偏諱を受けて尚昌に改めた。
 定春は、佐々木一族として鯰江城にあったが、主家六角義治の観音寺城が永禄十一年(1568)、信長上洛を前にして落城するも、居城に義治らを迎えて抵抗を続けた。しかし、天正元年、佐久間・蒲生・丹羽・柴田氏らの攻撃によって落城した。これより没落して。鯰江庄の内の森村に住して、森を称した。その後、天正十四年に上洛して秀吉に謁し、摂津国木津川下一領を与えられた。

大名に出世

 定春のあとは、弟政次が継ぎ、次いでその弟の高次が継いだ。高次は秀吉に仕え、尾張国愛智郡の内の御器所・末森を領して、慶長二年に没した。
 高政は、秀吉に仕えて、播磨国明石郡で三千石を領した。天正十年、備中高松攻めに従った。信長が本能寺の変にたおれ、秀吉は京に速やかに馳せ上らんとして、毛利氏と和議を結んだ。このとき、人質が取り交わされ、毛利氏からは宍戸某が、秀吉方からは森高政が質に出された。時に、毛利輝元の意により、森を毛利と改めた。
 同十一年、賤ケ岳の合戦に功をあげ、以後所々の戦にしばしば功をあげた。十五年には旧領を含めて加増があり、豊後国日田・玖珠二郡のうちにおいて、二万石を領し、日田郡の隈城主となった。文禄の役には軍奉行となって朝鮮に渡海し、のち帰国した。高政は朝鮮渡海に際して、軍船の幕に矢筈の紋を付けていた。これをみた秀吉より由緒を尋ねられ、外戚瀬尾の家紋で、瀬尾は梶原景時の後裔と答えたところ、いまより汝の家紋とせよと命じられたという。
 森氏は近江佐々木氏の一族でもあったことから、四つ目結紋を用いていた。また、鶴の丸をもって家紋にしていた。しかし、以後、矢筈を家紋とし鶴の丸は副紋にしたとされている。
 関ヶ原の戦に際しては、石田三成の催促に応じて大坂城に馳せ集まったが、そののち家康の麾下に帰降した。戦後、所領を海部郡に移され、佐伯城を賜る。ときに府内の竹中重利、岡の中川秀成らとならんで「豊後の七人衆」の一人と称せられた。あとは嫡男高成が継いだ。



■参考略系図  
  


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