三宅氏の起こりは、南北朝時代に南朝方で活躍した児島高徳であるという。伝えには「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済寺を創建し、正平20年(1365)に没した」とある。しかし、この説には疑問点が多く、後世になって作られたものであろうと考えられている。とはいえ、室町中期以降、高橋荘東方に勢力をもっていた鈴木氏に対して、伊保・広瀬など高橋荘北方を支配していたのは三宅氏であった。 15世紀末の記録に三宅氏を見い出すことができる。明応二年(1493)六月に完成した猿投神社の棟札に「大施主三宅筑前守家次」とある。また、この年の10月、伊保城主三宅伊賀守が金谷城主中条出羽守・寺部城主鈴木日向守・上野城主阿倍孫左衛門らと連合して、松平親忠と井田野で戦ったという記録がある。井田野合戦と呼ばれるもので、激戦の結果連合軍は敗退した。 16世紀になって、三宅氏は高橋荘東方の北部および足助西部にまで勢力を拡大し、松平・今川・織田氏と対立、あるいは連合・服属を繰り返している。亨禄三年(1530)、三宅政盛は松平清康に攻められ降伏。翌四年、清康は伊保城を攻め、城主三宅周防守清貞は戦いに敗れて広瀬城に逃走する。天文二年(1533)三宅右衛門大夫高貞は中条・鈴木・阿倍氏らと連合して松平清康に対抗したが、敗走。そして永禄九年(1558)三宅正貞は、元康に降り以後松平氏の家臣となった。 以後、三宅氏は徳川家の上昇期にあい、その子康貞、ついで康信、康盛は徳川家康の麾下として活躍した。そして康貞は三河挙母に一万石を与えられた。 ■参考略系図 |