阿曽沼氏は藤原氏秀郷流足利氏の流れで、足利七郎有綱の四男広綱が下野国安蘇郡阿曽沼郷に居住して、阿曽沼氏を称したのがはじまりである。文治五年(1189)、源頼朝の奥州征伐に従軍して功があり、閉伊郡遠野保を給せられたという。 その後、建保年間(1213〜18)にいたり、本領阿曽沼郷を嫡子朝綱に譲り、遠野保は二男親綱に譲ったと伝える。広綱・親綱の遠野保所領は、家伝以外の証がみえないが、建武元年(1334)八月の北畠顕家国宣によって遠野保は従前より、阿曽沼下野守朝綱の所領であったことが知られる。もっとも初めのうちは代官を送って阿曽沼氏は下野の本領にいたようだ。それは「承久の乱」における阿曽沼氏の行動からうかがわれる。すなわち、阿曽沼親綱は最初からこの合戦に参加しており、当時の交通事情から考えても遠野から承久の乱に参加することは不可能に近いことで、阿曽沼親綱は遠野には下向していなかったとみるべきであろう。 とはいえ、親綱がたまたま鎌倉に出仕していたとも考えられるが、乱に際して阿曽沼一族は親綱を惣領とあおぎ、その指揮下に出陣している。やはり、親綱は本領の下野国阿曽沼に居住しており、そこから一族を率いて参戦したとする方が自然である。親綱には兄朝綱がいたが病弱であったか他の理由があったのか、親綱の子光綱が本家に入ってその後継者になっている。この兄朝綱のことにしても、親綱が本領の阿曽沼を離れて遠野に移転したとは考えにくいといえよう。 中世の足跡 では、阿曽沼氏はいつごろ遠野に下向したのであろうか。その確証はないが、南北朝期のことであろうというのが、近年における見解である。 南北朝期には「遠野保地頭職」「江刺郡内角懸半分地頭職」のほかに、下野を中心に武蔵・常陸・相模などに所領を有した阿曽沼秀親がいたことが記録に残っている。このころが遠野保阿曽沼氏の本格的な発展期で、本領下野における同氏本家の足跡は以後不明となる。 伝えられる、室町期における阿曽沼氏の動向としては、永享九年(1437)三月、気仙沼の岳波太郎と唐鍬崎四郎の兄弟が遠野に出撃して、阿曽沼秀氏は護摩堂山の横田城を攻撃された。岳波と唐鍬崎の二人は閉伊郡の大槌孫三郎と連合して、気仙沼郡主化しつつある千葉伯耆守を攻撃しようと企て、阿曽沼氏にも加担をもちかけたが、秀氏は「不忠だ」と諌めたため攻撃を受けたのだという。 このころの阿曽沼氏の当主は秀氏で、弘綱の子とされている。しかし、秀氏を弘綱の子とするには疑問が出されている。岳波氏と唐鍬崎兄弟に加担した大槌氏は阿曽沼氏の一族とされ、あわよくば遠野阿曽沼氏にとって代わろうとする野心をもっていた。岳波氏らは千葉氏を逐い、その勢いをかって阿曽沼氏の居城横田城に押し寄せた。 当時、阿曽沼氏は遠野十二郷を支配したほぼ一郡の領主であり、一方の岳波・唐鍬崎兄弟は一村程度の郷士であった。それが、殴り込みをかけたのだから暴挙に等しい。ところが、この阿曽沼氏の危急に際して、遠野領内の一族、土豪たちが阿曽沼氏に協力した形跡がみられないのである。遠野領主である阿曽沼氏にしてみれば、領内の一族・土豪たちの協力があれば、岳波らをたちまち追い退けることは簡単なことであったはずだ。しかし、領内の一族・土豪たちは、中立を守って静観の姿勢をとったのである。 思わぬ苦戦となった阿曽沼氏は籠城し、三戸の南部守行に救援を求めた。南部からの救援軍七百騎は、遠野近くの宮森で夜営中を襲撃されたが、退却とみせかけて間道を回り、岳波・唐鍬崎・大槌の連合軍を不意打ち、そこに阿曽沼氏の城兵も加わり連合軍を撃破した。南部軍はさらに大槌城攻略に向かったが、大槌城外を巡察していた南部守行は、城兵の遠矢を受けて戦死してしまった。この騒動の記録は、南部家の武将北信愛が編述した『祐清私記』にみえ、『南部系図』にも記されている。一説に応永十九年(1412)の事件であったともいうが、永享九年とするものが多い。 遠野阿曽沼氏の出自異説 阿曽沼秀氏は南部氏の協力を得て、岳波・唐鍬崎兄弟らの侵入を防ぐことができた。秀氏は一族・土豪たちの協力を得られなかったことで苦戦になったわけだが、なぜ、協力を得られなかったのだろうか。 秀氏が弘綱の子として疑問視されていることは既述の通りだ。秀氏は『阿曽沼系図』によれば、阿曽沼朝綱─朝兼─弘綱─秀氏とし、親綱以来、遠野横田城にあって遠野を治めてきた、となっている。ところが、朝綱と朝兼は親子ではなく領主と代官の関係であったといい、系図どおりに弘綱が朝兼の子であれば遠野に居住していたということになる。しかし、弘綱は応安元年(1368)に、南朝方の新田義宗が旗揚げしたとき味方として沼田城に駆け付け、関東の北朝方を相手に奮戦しているのである。弘綱が遠野に居住していたとすれば、北朝方が優勢にある奥州の地から関東に駆け付けることは不可能なこととであった。このことから、遠野の弘綱は代官朝兼の子ではなく、朝綱の子孫で下野の本領に居住していて、沼田城に駆け付けたというのが事実であろう では弘綱の子でないとすれば、秀氏とは何者なのか。弘綱が新田義宗に味方したときから、秀氏が岳波・唐鍬崎兄弟に攻撃を受けた永享九年までは、七十年の年月が存在している。この年数からみても秀氏を弘綱の子とするには無理がある。加えて、秀氏の名乗りに代々阿曽沼氏の通字である「綱」「広」が含まれていないことも当時の慣習にそむくものであり奇異を感じさせる。 秀氏の出自について、『遠野市史』では安芸の阿曽沼氏の一族であろうとしている。すなわち、秀氏と同世代と思われる安芸阿曽沼氏の人物は「秀」の字を名乗りに用いている。おそらく、いつのころか、安芸阿曽沼氏のだれかが遠野に下向し、その領主権か代官権を主張して遠野に土着しようとした。それに対して遠野の阿曽沼一族や土豪たちは反発し、岳波・唐鍬崎兄弟が侵入したときも協力姿勢をみせなかったのだという。 いずれにしろ、遠野阿曽沼氏はこの秀氏が岳波・唐鍬崎兄弟の攻撃を退けてのち、阿曽沼一族、土豪たちを配下におさめ、遠野の領主として成長する基礎を築いたといえよう。 戦国時代の動向 戦国期領主として隆盛を誇ったのは広郷のころで、支配領域は遠野十二郷(田瀬・鱒沢・小友・綾織・宮森に大槌・釜石を加える)と称され、遠野保の領域を越えて閉伊郡海岸部まで拡大した。広郷は、信州諏訪明神の神夢により、妖蛇を退治して明神から神力を賜り、遠野に諏訪明神の分社を創始したという伝説をもつ阿曽沼親郷の孫で、武勇に優れた武士であったという。 そして広郷は、遠野という僻遠の地にありながら天正七年(1579)七月、使者を京都に送り、内大臣であった織田信長に白鷹を贈っている。太田牛一の著した『信長記』に、奥州の遠野孫二郎より白鷹一疋、これを進ずる」との事柄が見えている。広郷はよく天下の形勢に通じていたといえよう。また、『遠野古事記』に、「小身なれ共、元祖以来、代々一旗の城主にて、往古天子の御政務より打続き、時世の武将え直参の家格なり」とあるように、建武中興より、足利政権に引き続き、将軍家直参の豪族だったのである。 広郷の武勇としては、葛西氏領の岩谷堂に侵略をこころみたことがあげられる。当時、岩谷堂城は江刺重恒が城主であったが、内政は乱れており、配下の土豪も多く離反していた。その離反者の一人が阿曽沼広郷に支援を求めてきたのであった。広郷は葛西氏領侵略の好機としてこれに応じ、兵を出して岩谷堂城に攻めかかった。 ところが、案に相違して江刺重恒はよく防ぎ、遠野勢を寄せつけなかった。加えて、離反した豪族たちが討ちたいらげられたことで遠野勢は苦境に陥った。広郷はそのまま包囲を続ける愚を避け、夜陰に乗じて兵を引き上げた。このように、阿曽沼広郷は葛西氏領にも兵を出すほどに内政を充実させていた。その後、広郷は本城横田城を護摩堂城から鍋倉城に移し領内経営に努めたが、一族である鱒沢氏ら領内有力者の離反に苦しめられてもいた。 阿曽沼氏は戦乱のなかにあって、よく遠野十二郷を含む閉伊郡をも支配していたが、天正十八年(1590)小田原不参によって領主権を没収されることになる。阿曽沼広郷は、信長に誼みを通じるなど、よく天下の形勢に目を配り如才のなさを示した。ところが、なぜか信長死後にその事業を受け継ぎ天下統一に大きく前進した豊臣秀吉に対してはその外交を誤った。『阿曽沼興廃記』に、「秀吉公の素性卑しきを軽んじ、永く天下の武将になるべからずと侮り、帰服の音信を絶し、ひたすら近国の領主と都邑を争う」と、暗に広郷は秀吉を侮り軽んじて帰服しなかったと記している。そして、天正十八年の小田原陣に参陣せず、領地を没収されたのだという。 没落、そして断絶 遠野阿曽沼氏歴代のなかで傑出した人物とされる広郷であったが、小田原陣に際して天下の形勢を見誤った。しかし、これは後世の評価であって当時の奥州にあっては、周囲の状況は広郷が小田原に上ることを許す状況ではなかった。すなわち、遠野およびその付近は、広郷に圧迫されてその指揮下にあるものの、隙あらば広郷にとってかわろうとする豪族が多数おり、なかでも一族の鱒沢氏は広郷とたびたび合戦をまじえ、広郷を滅ぼそうとしていた。 もし、広郷が遠野を離れれば、たちまち横田城はもとよりその領国は瓦解することは必至であったといえよう。繰り返すが、広郷は小田原に参陣できる状態ではなかったのである。しかし、小田原への不参は、奥州の大名・土豪たちのその後の運命を決した。「奥州仕置」で葛西氏・稗貫氏・和賀氏・江刺氏・大崎氏らはことごとく領地を没収されたのである。阿曽沼氏も危うく領地没収となるところであったが、蒲生氏郷らの尽力により南部氏の付庸となることで辛うじて領地を全うすることができた。 天正十九年の「九戸氏の乱」に際しては、広郷自身は出陣していないが嫡子広長を参戦させている。しかし、それまでの独立した大名という立場ではなく、南部氏の配下としての領地安堵であっただけに広郷は心楽しまなかったという。そして、そのような阿曽沼氏の姿勢が没落につながる要因となったのである。 慶長五年(1600)、広郷のあとを継いだ阿曽沼広長は南部利直の最上出兵が終わって帰城の途次、遠野城が一族の鱒沢広勝らによって占領されたことを知った。阿曽沼広長は帰るべき城がなくなり妻の実家である気仙郡世田米城に走った。一方、遠野城から脱出した妻子は江刺郡境の五輪峠で殺害されていた。 広長に叛した鱒沢は南部利直の妹を妻にしており、遠野城の反乱は南部氏の策謀であったと思われる。南部氏にすれば、阿曽沼氏がかつての大名気分のままで従順でなかったため、家中に内訌を起こさせて排除したものであろう。阿曽沼広長は遠野城奪回と妻子の仇を討つため、気仙郡内の領主の支援を呼び掛けた。それに葛西氏の残党が応えたことで、阿曽沼一党と南部氏の間で戦端が開かれた。 阿曽沼勢は、浜田喜六を先鋒に進撃したが、鱒沢が気仙郡平田に逆襲して双方激戦となり、浜田喜六・鱒沢広勝のいずれも戦死して引き分けとなった。その後、阿曽沼方は篠木丹後・横田大学・及川土佐・只野民部らが遠野城を攻めたが、広勝の子忠右衛門が堅守した。ついで冬の積雪のなかを、阿曽沼勢は出陣したが、南部氏の平清水駿河らが守備を固くしていて、及川土佐・只野民部らが戦死した。ここに至って阿曽沼広長の遠野奪回の企ては挫折し、文治五年、源頼朝から閉伊郡を賜って以来、四百年続いた阿曽沼氏は没落した。広長は悲憤のうちに世田米で生涯を終え、阿曽沼氏の嫡流は断絶した。 阿曽沼氏─余禄 阿曽沼氏はこうして滅亡した。広郷は南部氏に対して従順ではなかったため、南部氏によって粛正されたとする説が一般的である。しかし、実際の史実においては阿曽沼氏は終始南部氏に従順で、その意に逆らったという証跡はない。 阿曽沼氏は、遠からず南部氏によって滅ぼされる運命にあったといえよう。そして、その滅亡により、阿曽沼氏の事蹟は不明となり、残された言い伝えなども、南部氏に都合のよい形で残された。しかも、阿曽沼氏没落のあとの遠野には四戸南部氏が封じられ、さらに、阿曽沼氏の歴史は闇のなかへ埋もれていったのであろう。 【参考資料:遠野市史/岩手県史/大槌町史 ほか】 ■参考略系図 |