藤原秀郷の末と伝えられ、出羽国飽海郡遊佐郷を本貫とする畠山氏の被官。南北朝期に畠山氏が奥州探題となったとき臣従したらしい。永徳二年(1382)畠山基国が河内守護に補任されたときは遊佐長護が守護代に任じられている。以後、本宗は代々河内守の官途を称した。次の畠山満家の時は、遊佐国盛が守護代、一族美作守某は山城守護代、ついで大和宇智郡守護代となり、当時、畠山氏の家政を一手に切り回していた。 畠山氏歴代で遊佐氏を守護代に任じなかったのは、戦国末を除けば、持国だけであるが、山城守護代は遊佐国助が就任している。 長禄四年(1460)、守護が義就から政長に更迭されて畠山氏の家督争いが激化すると、遊佐氏も両派に分かれ、国助・就家は義就に、河内守長直は政長に属して争った。応仁の乱前後を通して、軍事的には義就派の就家側が終始優勢で、河内を支配していたのは彼の系統である。このように河内では遊佐氏が守護代をほぼ世襲した。就家のあとは就盛、新次郎と続き、長直のあとは就盛、長教と続くが、大永から天文の混乱期には木沢浮貶・長政の親子が台頭し、細川晴元に取り入って国政を壟断する傾きがあった。 しかし、太平寺の合戦で長政は敗北し、長教が領土の実権を握る。かれは軍略にすぐれ畠山氏の実権をにぎり、三好長慶も彼のために苦杯をなめたが、天文十七年(1548)、長慶は和睦して長教の娘を娶り、姻戚関係を結んだ。しかし、それから三年後、長教は反長慶派の刺客によって暗殺され、守護代は安見直政に交代した。長教の子信教は高政に仕えて守護代となり、永禄十二年高政を遂い、その弟昭高を暗殺したりしたが、結局信長に殺され、河内遊佐氏は滅亡した。 ■参考系譜 長護………長直−順盛−長教−信教 ……就家−就盛−新次郎 |