ヘッダイメージ



桑山氏
桔 梗
(藤原氏秀郷流結城氏後裔)


 豊臣氏に仕えて世に出た桑山氏は、家譜によれば「結城朝光四代孫宗広の三男親治、初めて桑山を称す」とある。 累代、尾張国海東郡桑山庄を領したといい、親治より三代に貞久、さらに七代の孫を以則という 一方で、清和源氏土岐氏の後裔とする系図もあるが、人名、世代数などに疑問が残るものである。また、 神護景雲三年(769)三月紀に、陸奥国安達郡鍬山より出た鍬山氏が「信夫郡人外従八位下吉禰侯足山足等七人、 賜姓、上毛野鍬山公」と見える。一説に「桑山もと鍬山に作る」とあり、上毛野鍬山公の後裔とも思われるが確証が あるわけではない。
 ところで、桑山氏の家紋は土岐氏流の代表紋である「桔梗」を用いており、 家譜のとおりに結城氏の子孫ということであれば「三つ巴」が自然だが、用いた形跡はない。いずれにしろ、 桑山氏の出自に関してはすべて憶測の域を出ないというしかない。

桑山氏の出頭

 桑山氏は紀州和歌山で四万石の大名になった重晴の代に名をあらわした。重晴は以則の子(定久の子ともいう)で、 尾張の出身と伝えられている。重晴は織田信長に仕え、のちに丹羽長秀の与力となり、姉川の合戦などに出陣、活躍した。 姉川の合戦ののち、長浜を与えられた秀吉が琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺に収めた『竹生島奉加帳』に その名がみえており、丹羽氏から転じて秀吉の与力となったようだ。以後、秀吉の出世とともに重晴も順調に出世の 階段を昇っていった。
 秀吉が播磨征伐の大将として出陣すると、秀吉の弟秀長に属して但馬攻めに従軍、戦後、 但馬国竹田一万石を与えられ竹田城主となった。天正十年(1582)、本能寺の変で織田信長が横死、その後、織田家の 主導権をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が対立した。天正十一年、賤ケ岳の戦いが起こると重晴は賤ケ岳砦の守将として 柴田軍を迎え撃った。しかし、佐久間盛政の猛攻を受けて撤退、旗幟を曖昧にして時をかせぎ、 賤ケ岳に在陣を続けてついに秀吉の来援を得た。その功により、戦後、二万石を加増された。
 ライバルを倒した秀吉は信長の事業を継承、天下人へと成り上がっていった。天正十三年、紀州攻めが開始されると 重晴は根来攻めに活躍、紀伊平定後、大和・紀伊の領主となった豊臣秀長の家老職を命じられ、和歌山城代として三万石を 領する身代となった。天正十九年(1591)、秀長が大和郡山で病没、跡を継いだ秀保も事故死したことで大和大納言家は断絶、 重晴は秀吉の直参大名に返り咲いた。
 重晴は数人の男子に恵まれたが、長男一重は父に先立って天正十年に死去したため、家督は孫の一晴が継承した。 慶長元年(1596)、一晴に封地を譲与して隠居したが、その後も御伽衆として秀吉に仕えて和泉谷川一万六千石を領した。 秀吉没後は、遺物十五枚を拝領している。


大和新庄城址へ
かつて桑山氏が拠った陣屋跡は、戦国時代、布施一帯を治めた布施氏が居館を構えたところで、 そもそも前方後円墳を館に利用したものである。古墳は全長135メートル、高さ15メートルのもので 新庄最大の古墳で、館が設けられたことで埋葬施設などは破壊されてしまっている。いま、一帯は 公園として整備され、城址の石碑、空掘跡などが城址であったことを物語っている。


桑山氏の浮沈

 次男元晴は、秀長没後、秀保に仕え、文禄の役では甥の一晴とともに朝鮮に渡海し、各地で転戦、 文禄三年(1594)、秀保が吉野十津川で水死すると秀吉に仕え、大和御所で八千石を領した。関ヶ原の合戦では東軍に属し、 戦後、大和御所藩二万六千石の大名になったが、寛永六年(1629)、次男貞晴が嗣子のないまま病死したため 改易となった。
 一方、和歌山四万石を継承した一晴は関ヶ原ののち大和布施に転封され、一万六千石に減封、 さらに慶長十一年、大和櫛羅に転封される。そして、一尹の代の天和元年(1681)、東叡山法会での非礼を咎めら改易処分 となり、その二年後に一尹は病死してしまった。こうして大名桑山氏は跡絶えたが、 それまでに分知を受けた庶家が旗本として残った。また、紀州徳川家に仕えた桑山氏もあった。

【主な参考文献:寛政重修諸家譜・戦国大名370家出自事典 など】


■参考略系図
【旧版系図】

バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧