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黒川氏
●二つ引両/五三の桐
●清和源氏足利氏流  
・黒川氏の位牌に「二つ引両」の紋が据えられている。  


 黒川氏は清和源氏足利氏流で、文安二年(1445)頃、羽州探題最上左京大夫直家の三男左衛門尉氏直が黒川に封ぜられて、黒川氏を名乗ったというのが定説である。そして、文安二年(1445)頃に大崎氏支族として黒川郡に封ぜられたという。しかし、その出自に関しては江戸初期に家系が断絶したこともあって、既に江戸中期から不明な点が多い。

黒川氏の出自

 『伊達正統世次考』『奥羽観蹟聞老志考』『最上系図』などでは、最上直家の子を祖とするものと、鎌倉公方足利氏の末流とするものとの二流が示されている。その他『奥相秘鑑』では千葉常胤の六男東胤頼の末流とし、地元の伝承では藤原姓黒川氏の存在などが知られている。
 黒川氏の系図は「源姓足利黒川系図」をはじめとして、「源姓黒川氏大衡家族譜」「源姓大衡氏譜」などがあり、いずれも最上系であることを記している。しかし、『余目旧記』には「黒河殿は六代にてたへ給ふ也」とあり、最上系黒川氏は断絶して、そのあとを足利系黒川氏か藤原姓黒川氏が継いだとも考えられる。
 いずれにしろ、黒川氏は始祖氏直から十一代季氏まで約百八十年間続いたとされるが、その間の消息は「系図」とか、黒川郡大和町の報恩寺に残された「牌名」などから累世の氏名・没年月日・享年・法名などを知りうるのみで、具体的な事蹟は不明といわざるをえない状況にある。とはいえ、長禄四年(1460)十月に古河公方足利成氏から出陣を命じられていることから、中奥の有力豪族として目され、大崎氏同族として大崎領南辺を固める役割を担っていたことは疑いない。しかし、伊達氏の北上にともなって、大崎、伊達の二大勢力に挟まれ動揺するようになる。

勢力拡大

 『伊達略系』などによれば、伊達家九代政宗の応永年間(1394〜1527)ごろ伊達氏の勢力下に入ったようだ。そして、留守氏六代に伊達親族の飯沼氏から景氏が迎えられたことで、完全に伊達氏の麾下に伏したようだ。そのためか『仙台人名辞書』では、景氏を黒川氏一世としている。
 景氏は、伊達稙宗の奥州諸氏支配策の一貫として黒川氏に入嗣させられたものであろう。伊達稙宗と晴宗の父子が争った「伊達氏天文の乱」には稙宗方に属し、仙北地方における稙宗陣営の中心となり、戦乱の調停などに活躍した。
 黒川氏の初期の居城は御所館と伝えられるが、景氏の代に鶴巣下草へ移し、伊達勢力圏の北辺を固める存在へと変身した。そして、伊達氏勢力を背景として家臣団の編成や城下町形成が行われ、小規模ながら戦国大名化の道を歩んだようだ。伊達氏の後楯を得たとはいえ、景氏は黒川氏を中興した人物であったといえよう。
 黒川氏の家臣としては、大衡・細川・松坂・八谷・郷右近氏らが知られ、その城は三十三城、知行高は三千九百十七貫余であったと伝えられている。
 黒川氏代々で名を残したのは、景氏の孫で黒川氏九代当主となった月舟斎晴氏であろう。晴氏は黒川郡の支配者として家臣団編成や城下町の整備に務め、黒川氏累代を代表する武将であった。しかし、小大名に過ぎない黒川氏は、南方から着実に勢力を伸ばす伊達氏と、北方の大崎氏との間で揺れ動く以外になかった。

大崎氏の内訌

 黒川氏の宗家にあたる大崎氏は、南北朝時代より奥州探題として長く勢力を振るったが、家臣団の内紛が続き次第に衰退の色を濃くしていた。一方、伊達氏は着実に勢力を拡大し、大永五年(1525)、伊達稙宗が陸奥国守護職に任じられたことで、大崎氏と伊達氏の立場は完全に逆転した。
 天文三年(1534)、「大崎氏天文の内訌」が始まると、大崎氏はさらに勢力を失っていった。天文の内訌は伊達氏の支援を得てどうにか克服したものの、家中の動揺はおさまらず戦国末期に至るまで家臣団の内紛が続いた。
 天正十四年(1586)、家中の権力争いが激化し、一方の新田部刑部一派は、大崎氏執事の氏家弾正吉継を領袖とする反対派を掃討して主君大崎義隆に詰め腹を切らせようとした。新田部らは伊達政宗に奉公を誓って援助を請い、政宗も大崎氏征伐の好機として支援を約した。ところが、新田部一派は一転して主君義隆を擁して、反対派の氏家弾正を討つことにした。にわかに、窮地に陥った氏家弾正は政宗に援助を願い出た。
 これを聞いた政宗は新田部らの不義理を怒り、すぐに氏家弾正を援助することにし、大崎領への出兵を決した。のちに「大崎合戦」と呼ばれる戦いで、天正十六年(1588)一月、政宗は留守政景と泉田重光を大将に命じ、浜田景隆を陣代として兵を出した。さらに、長江月鑑斎、田手宗実ら大崎領に近接する諸氏に動員令を発し、伊達軍の陣容は一万数千人というものであった。戦国末期の黒川氏は伊達氏の影響下にあり、政宗は晴氏も味方に参じるものと思っていた。ところが、晴氏は伊達氏と決別して大崎軍に投じ、桑折城に入って抗戦した。
 このとき、晴氏はすでに老境にあり、伊達氏に対立する不利も承知していたものと思われる。また、娘は伊達政宗の信頼が厚い留守政景に嫁いでおり、政景は大崎攻撃軍の一方の大将であった。しかし、晴氏は大崎氏から養子として義康を迎えていたこと、若輩の伊達政宗が人もなげに振る舞うことに対して、心中穏やかならないものを抱いていたようだ。小説的に解釈すれば、「若造に一泡ふかせてやろう」という戦国武将の血が騒いだのかも知れない。

大崎合戦

 大崎氏が伊達軍迎撃のために前進基地としたのが、桑折城、師山城、下新田城であった。とくに、桑折城と師山城は大崎氏の命運をかけた二大拠点となった。一方、伊達軍が攻撃の重点としたのは大崎方の本城となった中新田城である。
 伊達軍が中新田城を攻撃するためには、大崎原野を一直線に駆け抜けるのがもっとも最短距離であり戦術的にも定石であった。当然、これは大崎方でも中新田城を守るためには伊達軍のこの行動を阻止するための急所に兵を置くことは常識であり、桑折城と師山城の両城はその急所にあたる位置にあった。桑折城主は黒川月舟斎の叔父にあたる澁谷(八森)相模であり、月舟斎は一族を率いて桑折城に入城したのである。
 月舟斎の婿にあたる留守政景は使者を送って、「親子敵対候わんは、浅ましくも又忍び難き候とも存じます。願わくば我が味方に来り、永く黒川の家運を開かるべし」と帰順をよびかけた。これに対し月舟斎は「合戦は義を重んじ、私を軽んずるにてこそあれ。たとえ親子なりとも宥赦なく励むなるべし」と、政景に伝えよと使者に語ったという。
 かくして、伊達軍の攻撃は開始され、泉田重光の率いる軍勢が先陣となって中新田城攻撃に馳せ向い、一方の留守政景の率いる軍は師山城攻撃に出陣した。泉田率いる先陣は大崎原野を難なく突っ切ると、「大崎方は戦意を失いたるぞ」と驕り高ぶって怒濤のごとく中新田城に押し寄せた。対する大崎方は決して伊達軍の攻撃を見過ごしたわけでもなく、臆したわけでもなかった。
 大崎方は伊達軍の先陣と後陣を完全に分離させ、それぞれ、連絡がとりにくくなる態勢をとらえて一斉に包み込んで各個撃破する作戦だったのである。最初から大崎勢をのんでかかっていた伊達軍は驕兵化しており、伊達軍は大崎方の作戦にまんまとはまってしまった。とはいえ、伊達軍の攻撃は猛烈で、中新田城は三の丸・二の丸を落とされ、本丸を残すばかりとなった。
 一方、師山城を攻撃するために機をうかがっていた留守政景勢は、中新田方面からの攻防の音が聞こえてくると、一斉に中新田方面への前進を開始した。

伊達勢を翻弄

 大崎領は雪の名所で、とくに春先には水気の多い雪が大量に降ることで知られていた。この日、大崎地方には低い雲がたれこめ、風もふかないおだやかな凪をみせていた。これは、雪の降る前兆であり、大崎方にとって作戦の大きな要素となっていた。
 伊達軍の攻撃に際して大崎方は降雪のあることをを計算に入れており、天気は思い通りに動き、にわかに大崎名物の春の大雪が襲来してきたのである。突然の気象異変は攻守の立場を逆転させ、たちまち伊達軍は寒さのために動きを奪われ、ついに撤退を始めた。こうなると、伊達の中新田攻撃軍は潰走するばかりとなった。
 中新田攻撃軍の敗走を知らない留守政景勢は進撃を続け、桑折城、師山城の線を過ぎる地点に達した。そのとき、桑折城から狼煙があがり、それに呼応して師山城をはじめとした大崎方の城館から一斉に螺が鳴り響いた。月舟斎が発した攻撃命令であった。満を持していた大崎勢は伊達軍の背後を遮断し、後方から激しく鉄砲を打ちかけ、矢を射かけた。
 完全に袋の鼠となった伊達勢は反撃に転じたが、大崎方は雲霞のような大軍で、中新田城攻撃軍と合体しようとする伊達軍の行動を阻んで釘付けにした。そこへ、下新田城からも大崎勢の主力が出撃し、伊達の両軍の間に割って入って撹乱したため、伊達軍は合体ができず、さらに大雪が降り出したことで伊達軍には続々と戦死者が出た。
 伊達軍の中新田城攻撃軍は、大きな犠牲をしいられながらもようやく新沼城までとどりつくことが出来た。一方、留守政景軍は大崎勢の攻撃に四分五裂し散々な状況に陥り、退路も遮断されて大崎原野に孤立して全滅を待つばかりであった。この戦況に至って政景は、桑折城の月舟斎に使者を送り「娘婿の縁をもって、われらの危機を救ってくれ」と嘆願した。これに対して月舟斎は、「貴殿一人のみには応じよう」という冷淡な返事を返した。
 この月舟斎の返事に接した政景は、残った兵をひきまとめると桑折城下を押し通ることに決した。この悲壮な政景の決意に残った兵も勇気を振り絞り、軍勢は粛々と南に移動していった。

戦国時代の終焉

 政景軍の桑折城進撃を知った月舟斎は、にわかに憐憫を覚え、伊達勢の退去を許すようにと命じた。これに対して八森相模は反対したが、月舟斎は「勝負は終わった。これ以上無益な殺生は無用」と説得して、政景のもとへ「千石城への通過を許す」と申し送った。この報に接した伊達勢は狂喜し、一同は月舟斎の仁慈に深く感謝をして千石城へ帰っていったという。こうして大崎合戦は伊達勢の完敗に終わり、月舟斎の面目躍如たるものがあったといえよう。
 以後、伊達遠征軍は敵地の新沼城に籠城する羽目に陥った。敗報に接した政宗は直ちに出陣しようとしたが、米沢を離れられない情勢にあり、伊達・刈田・伊具・柴田方面の諸氏に出動を命じた。救援軍は志田まで進撃したが、それ以上は進めなかった。やがて、新沼籠城軍も食糧が尽き、大将泉田重光、長江月鑑斎が人質となり、その他の諸氏もそれぞれ子弟を人質に出し、城を脱出することができた。
 大崎合戦に敗れたとはいえ、政宗はその後も大崎征討の意志を変えなかったが、最上義光や政宗の母保春院らの調停によって、大崎氏との間に和議が結ばれ、大崎氏は政宗に屈する形をとって伊達氏に降った。そして、天正十八年(1590)の「奥州仕置」によって大崎氏は所領没収の処分を受けて没落した。
 政宗はただちに、黒川氏に対して報復措置をとり、晴氏の所領を没収、身柄を米沢に拘禁して断罪しようとした。しかし、留守政景の助命嘆願によって一命をとりとめ、以後は政景の保護下で余生を送り、慶長十四年(1609)、波乱の生涯を閉じた。男子がなかった晴氏は、大崎氏から養子義康を迎えていた。義康も大崎合戦に養父とともに伊達軍と戦ったが、所領没収されたのちは少禄で伊達氏に仕えた。そして、その子季氏に男子が無く黒川氏は断絶した。・2006年2月20日

参考資料:伊達政宗に睨まれた二人の老将/図説・宮城県の歴史 など】


■参考略系図
 


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