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栗山氏
丸に三つ柏
(村上源氏赤松氏流という)


 栗山氏は赤松氏の一族といい、赤松一族八十八家にも見えている。しかし、赤松氏の家系に関しては諸説があり、初期の系図もにわかには信じ難いものであるから、栗山氏がただちに赤松氏からの分かれとするのは危険といえよう。
 嘉吉元年(1441)、赤松満祐が起こした「嘉吉の乱」のことを記した『赤松盛衰記』がある。盛衰記の「城山籠城宗徒」の中に「七十丁 栗山大膳」とあり、『赤松嘉吉年間録』には「飾東郡安田山ノ城主 栗山弥史郎弘実」 、さらに、『赤松秘士録』の「嘉吉合戦」に「七十貫領栗山大膳道射 河野一族於和坂討死」などと見えていることから、赤松氏と盛衰をともにしたことが知られるのである。また、『播磨鑑』にも「(飾西郡)栗山村 領主ハ栗山三郎左衛門 暫ク別所ノ家人トナル」と記されている。
 栗山氏は一本赤松系図によれば佐用範家の流れで、小寺清治の子三郎左衛門景明が播州栗山城主となり栗山を名乗ったのが始まりという。そして、備後守祐利の代に宍粟郡染河内・明泉城主となり、羽柴秀吉の播磨侵攻に際して別所氏らとともにそれに抵抗し、天正七年(1579)秀吉軍の攻撃を受けて城は落城、子孫は旧領地にて郷士となったという。

黒田家中の栗山氏

 一方、播磨の栗山氏として、黒田氏に仕えて家老をつとめた栗山備後を出した家が知られる。こちらの栗山氏も赤松氏の流れといい、利宗のとき足利尊氏から現在の姫路近郊栗山の地を賜り、栗山を名乗ったと伝えている。もっとも、「栗山系図」がそのように伝えるばかりで、その真偽は不詳というしかない。
 その栗山氏がのちに鎮西の大大名となる黒田氏と関係をもったのは、栗山善右衛門の二男利安が家を出て黒田孝高(はじめ小寺官兵衛、のちに如水と号す)に仕えたことに始まる。孝高に仕えた利安は正直者にして健気であったことから、孝高より善助と命名された。善助は善人であるとともに、武勇の人物でもあった。永禄十年(1565)、青山において敵二人を討ち取り、ついで英賀において鎖鎌を良く使う房野弥三郎を倒している。永禄十二年八十三石を賜り、孝高が一万石を領したとき二百石を拝領した。以後、孝高の老臣として加増を重ねていくことになる。
 ところで、天正六年(1578)織田信長の重臣荒木村重が信長に謀叛を起したとき、孝高は村重を諌めるため有岡城に往って、村重に生け捕られた。孝高の生死は不明で、孝高が荒木方に寝返ったものと信じた信長は孝高の嫡子松壽(のちの長政)の殺害を命じたのである。このとき、善助は母里太兵衞、井上九郎次郎らとともに孝高が押し籠められている牢屋を突き止め、有岡城が落城するまで孝高を守護しつづけた逸話はよく知られている。
 天正十年六月、織田信長が明智光秀の謀叛で斃され、光秀を討ち取った羽柴秀吉が天下人に駆け上った。そして、九州征伐のなった天正十五年、孝高は豊前国六郡を与えられたのである。このとき利安は、六千石を与えられ黒田家中屈指の大身に出世した。ところが、豊前国城井谷には鎌倉時代以来の豪族宇都宮(城井)氏が割拠しており、豊臣秀吉の伊予移封の命にも従わず、新領主として入部してきた孝高の前に立ち塞がったのである。
 宇都宮氏は一族を諸処に配し、当主鎮房も武勇の将として知られていた。秀吉から討伐の命を受けた孝高は一計を案じて宇都宮氏を討ち取り、天正十六年、城井谷を攻撃した。このとき、栗山備後守利安は後藤又兵衛等とともに孝高に従って、宇都宮一族野中氏が守る長岩城に迫った。戦いは三日三晩にわたって繰り広げられ、ついに落城、野中氏は滅亡した。戦後、孝高は長岩城攻めで戦功をあげた栗山備後守利安に対し、長岩城代を命じて中津城の守りを固めたのであった。
 翌年、孝高は隠居して如水軒圓清と号し、利安は長政に仕えるようになった。文祿元年(1592)の朝鮮陣に際して、利安は母里太兵衞とともに長政に従って渡海した。

戦国の終焉、徳川の世へ

 黒田氏をはじめ、多くの大名は妻室を大坂に上らせていた。これは、豊臣政権に対する諸大名からの人質でもあった。秀吉死後の慶長四年(1599)、徳川家康が会津の上杉景勝を攻めるため関東に下ったが、その陣に長政も従った。長政は留守中に豊臣方が乱を起したら、妻室を城内へ人質に取られぬようにと言い残していったのであった。栗山備後守は母里太兵衞とともに大阪天滿の邸で留守を守っていたが、果たせるかな石田治部少輔三成が大坂城に入り、大名の妻室を大坂城内に移そうとした。備後守利安は母里太兵衞と図って、如水の室と長政の室を無事に邸から逃し、中津に帰り着いた話は森鴎外の小説「栗山大膳」に描写されているところである。翌慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起ると黒田長政は家康軍の主力として大活躍、戦後、筑前国を賜った。このとき、利安は一万五千石を拝領し、上座郡左右良の城代となり、一国の仕置に預かった。
 慶長十九年、元和元年(1615)の大坂の両陣には嫡子の大膳(利章)が長政の嫡子忠之に従って出陣し、利安は国元の留守に任じていた。元和九年、長政が五十三歳を一期として病没した。長政の遺言は、大膳利章と小河内蔵允とが聞いた。長政の遺骸は領国へ運ばれ、箱崎の松原で荼毘にふされたが、このとき柩の先へは三十三歳になる利章が手を添へ、跡へは二十二歳になる忠之が手を添へた。利安は長政の亡くなつた時七十三歳で、そのまま剃髪して一葉斎卜庵と名乗り、寛永八年(1631)、八十二歳をもって死去した。
 利安は没する前日より意識不明となり、ただ呼吸をするばかりであった。ところが、突然「馬よ!鉄砲よ!彼方に敵が出た。味方の人数を揃えてあの山に鉄砲を放て!」と大声で叫びだし、明け方に没した。まことに、戦乱のなかを生き抜いた人物の臨終であった。また、孝高の命で義兄弟の仲となった母里太兵衞は長政にすら楯突く豪勇であったが、利安には終生逆らえなかったといわれる。
 利安のあとは、大膳利章が継いだが忠之との仲が次第に険悪となり、ついに忠之の失政を批判し、忠之派と対立するに至った。俗にいわれる「黒田騒動」で、この争いに幕府が介入、寛永十年(1633)幕府の裁決によって利章は南部藩お預けとなった。そして、承応元年(1652)、配流の地で没した。嫡男利周は黒田家から招聘を受けたが、それを断り處士を以て終ったと伝えられている。



■参考略系図
    


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